蛙田鯉

ムラサキハルカ

 夕方、みくはあぜ道の端っこで腰を落とし、水の張ってある田んぼの手前に目を落としている。視線の先では、一匹のアマガエルが水中に佇んでいた。みくの方を見ているとも見ていないともつかないその両生類は、微かに体を振るわせつつも、大きな動きを見せない。みくは幼くはあったものの、自分が妙な動きを見せれば、アマガエルがすぐにいなくなってしまうのを知っていたため、ただただ見つめることしかできない。その一方で、みくの頭はこのアマガエルを捕まえたいという気持ちでいっぱいになっていた。しかし、むやみやたらに手を伸ばしては数々のアマガエルたちに逃げられた経験が、みくを慎重にさせる。もちろん、逃げられた回数よりは少なかったものの、捕まえたこともあった。その上でみく自身、しっかりと把握しているわけではないものの、今までのアマガエルを捕まえた時と照らし合わせてみると、自らとカエルとの間にある距離が長い気がしている。捕獲の際、みく自身が屈んだまま下の方に手を伸ばさなくてはならない都合上、あまり距離が長すぎるとアマガエルを掴めないのはもちろんのこと、下手をすれば勢いあまって田んぼに顔から突っこむおそれすらあった。みく自身は泥を好ましく思っていたが、つい先日、似たような事情で全身泥まみれになって家に帰った際に、母に大目玉を食らった記憶が臆病さを呼び覚ましたため、なかなか動くに動けない。そうしている間も、少しずつではあるものの、日が落ちていきつつある。暗くなってから帰っても、それはそれで怒られるため、いずれにしろ、どこかで区切りをつけなくてはならなかった。こうした事情をなんとはなしに踏まえたうえで、みくは細心の注意を払って、ゆっくりと水の張ってある田んぼの方へと屈んだままちまちまと歩いていく。アマガエルに逃げられず、田んぼへと落ちないような、ちょうどいい距離感。そんな理想的な座り位置を目指して、みくはちょびちょびと足を進めていく。少々の時間をかけた末、みくはようやく道際ぎりぎりまで体を持っていくことができた。幸い、アマガエルはまだそこにいる。みくは唾を飲みこみながら、いかにして両手を伸ばすべきかと算段を固めていく。今すべきか、それとももう少し頃合を見るべきか。心臓をどくどくと鳴らしながら機を窺う。いずれにしても、日が沈むまでには帰らなくてはならず、みくが手を伸ばさなくとも先にアマガエルの方がどこへなりとも消えてしまうかもしれなかった。アマガエルと目を合わせつつもできるだけ息を殺し、内心の動揺を悟られないようにしながら、みくは次第に覚悟を決めていく。鼓動は大きくなっていくばかりであったが、さほど我慢強いというわけでもないみくは、程なくして痺れを切らし、もう少ししたら手を伸ばそうと決める。その矢先、突如として赤い物体が横からアマガエルに襲いかかり、瞬く間にその体を呑みこんだ。なにが起こったのかわからずにまぶたを開いたり閉じたりするみくの前で、その物体は水の中で体をゆらゆらとさせていた。ようやく、落ち着いてきたところで、みくはその物体が一匹の鯉であるということに気が付く。ただ、この田んぼの近くにある川で見かけるものよりもかなり小ぶりである。相手の正体を知るのと同時に、目の前にいた獲物をかっさらわれた怒りがふつふつと湧きあがった。その感情の火に油を注ぐかのように、鯉は口をぱくぱくと動かす。みくの目にはその姿が、ああおいしいな、とでも語っているように見えた。お母さんに頼んで今日の夕飯にでもしてやろうか。そんな気持ちとともに勢い良く手を伸ばそうと両腕に力を入れる。鯉の方は、みくの姿に気付いているのかいないのか、相変わらず口をぱくぱくとさせている。その動きに、より馬鹿にされているような気がして、一気に鯉に向けて手を伸ばそうとした。その瞬間、右手首をつかまれ、思わず動きを止める。こらこらお譲ちゃん、そんなことしたら田んぼに落ちちゃうぞ。聞きなれない男の声を耳にして反射的に振り向けば、濃紺の作務衣を着た中年の坊主が不適な笑みを浮かべている。邪魔しないでと食ってかかるみくを、坊主はまあまあと諌めたあと、このまま田んぼに飛びこんで風邪を引いたりしたら君の親御さんは悲しむだろう、などと口にした。みくが、飛びこもうとしたんじゃなくて鯉を捕ろうとしたの、と答えると、坊主は小さく顔を顰めてから手を離し、それは勘弁してもらえないだろうか、と応じた。なんで、とみくが問いただせば、坊主はばつが悪そうに頭を掻いてから、あれは俺のペットなんだよ、と答える。途端にみくの怒りは坊主の方へと向けられ、じゃあ責任とってよ、と叫んでいた。坊主は呆気にとられたように目と口を大きく開いていたが、やがて落ち着いたらしく、うちのペットがなにかしてしまったのかな、と尋ねる。みくは素直に、わたしが捕ろうとしてたアマガエルをあの鯉が食べちゃったの、と主張した。坊主は、ああなるほど、それはうちのペットが悪いことをした、あいつはカエルが大好物でな、それでこっそりアマガエルがいっぱい出てくる田んぼに連れてくるんだ、と応じたあと、それでお譲ちゃんはうちのペットを捕まえたあとにどうするつもりだい、と問いかける。みくは荒れる感情そのままに、今日の夕飯にする、と宣言した。坊主はこめかみを人差し指で撫でたあと、それは勘弁してくれないかね、と静かに言う。みくは首を横に振って、いや、夕飯にするの、と譲らない。その態度に坊主は瞼を閉じ、困ったなぁ、と唸ってから、普段は泥が多い池で飼ってるからきっとまずいよ、と告げる。しかし、みくは、まずくてもおいしくても食べるの、とより頑なになるばかりだった。すると、と坊主は大きく溜め息を吐いてから、お譲ちゃんがうちのペットを食べたあとには俺がお譲ちゃんをぺろりとたいらげなくてはならんな、とおもむろに口にする。こうなるとみくは戸惑うほかなく、どういうこと、と力なく尋ねるほかない。そりゃそうだろう、と応じた坊主は、俺もこの鯉にはそこそこ愛着があるからね、そいつを食われたとなれば食ったやつをどうにかしてやらないと気がすまなくなるからさ、などと言ってみくを見る。鋭い眼差しに貫かれた瞬間、みくの体は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまう。なにか言わなければならない、と思いはしたものの、唇は引き攣るばかりで言葉一つ出てこない。そうやってじっとしているみくの頭上で、坊主の手が重々しく動いた。ようやく、ひっ、と声が漏れる。食べられちゃうのかな、という不安にかられ、みくは思い切り目をつむった。こうしていたらやり過ごせないだろうか、という淡い期待に反して、坊主の手が頭に触れた。思わず身を竦めたみくの気持ちに反して、坊主の手らしきものは髪を優しく撫でるのみで、それ以上のことは一向にしてこようとしない。おそるおそるまぶたを開けば、坊主が温かな眼差しをみくに向けていた。坊主は、怖がらせて悪かったな、と軽く謝ったあと、まあなにはともあれいつまでもやられたらやり返すじゃきりがないんだよ、などと言ってみせる。みくは、坊主の言っていることをあまり理解していなかったものの、とりあえず食べられるわけではないのだとわかり、ようやく体から力をぬいた。とはいえお譲ちゃんが捕ろうとしていたアマガエルをうちのペットが食べてしまったのもたしかだし、代わりに俺がアマガエルを一匹捕ってくるっていうことでこいつを許してくれないかね。そう坊主が申し訳なさそうに目を細めて謝ってくるのを見て、みくは鯉に対するかすかな恨めしさが残ってはいたものの、アマガエルをくれるなら、と頷いてみせる。坊主は小さく微笑んで、良かったそれならば捕ってこよう、と言ってから傍に置いてあった木製の桶を手にとり、それを屈みながら田んぼに張ってある水に突っこんだ。坊主の動作に反応してか、鯉は桶に吸いこまれるようにして泳いでいく。その姿に恨めしさや名残惜しさの混じりあった感情を抱きつつ見つめるみくに、お譲ちゃんはアマガエルが好きなんだな、と坊主が尋ねる。みくは、うん、と力強く頷いたあと、これから手に入る代わりのアマガエルに思いを馳せた。それじゃあ俺も頑張って捕らないとなと告げた坊主に、みくは、お願いね、と告げてから、うちのお腹を空かしたトノサマカエル君はアマガエルが大好物なんだから、と満面の笑みを浮かべた。

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