プチドラ

水野洸也

 ぼくが運転を担当して、萩原マサキが後部座席に乗った。どうして助手席を選ばなかったのかが気になったが、恋人でもあるまいし、そんなのオレの勝手だろといなされるのがわかっていたので止めておいた。二週間前に普通免許を手に入れたばかりのぼくの運転は未だにのろのろしており、そのくせ後続の車がぎりぎりまで寄せてきた時にだけ慌ててスピードを上げる。そのたびに乱暴な運転になり、同乗者の身体を上下左右に揺さぶる。道も悪いから余計に酷い。だが萩原は何も言わず、ただスマホをいじるばかりだった。
 時たま、眠りから醒めたばかりのような間延びした声が聞こえてくる。
「恵、お前これ見てみろよ」
 バックミラーで確認すると、かろうじて文字が識別できるくらいのところにスマホ画面がある。一覧表のようなものが見えるが、具体的に何が書かれているのかまではわからない。
 どうだと萩原が聞いてくるので、ぼくはただ運転中だよと答えた。
「じゃあ少し停まれよ」
 ぼくは適当な距離を走った後、軽自動車がようやくすれ違えるくらいの幅しかない道路に入った。またしばらく走った後、速度を極限まで落として左脇に丁寧に車を寄せ、ハザードランプを点灯させた。
 一息つく間もなく萩原はこちらに身体を寄せ、運転席を後ろから掌で叩いてきた。「これだよこれ」
 どれどれと顔をスマホ画面に寄せてみると、「FiA」という文字と「ヨーロッパ諸国の法定最大速度」という見出し文が目に入った。彼が何も操作しないので、ぼくの方で画面を下へとスクロールさせていく。ベラルーシ、ブルガリア、ギリシャ、イタリア、マケドニア……底まで行き着いてしまったところで、「はいストップ!」と大袈裟な声が耳元で響いた。
「言うの遅くない?」
「いいや遅くはない。オレが見て欲しかったのはここだ」
 萩原はびしりとある一点を指差す。それだけでは何のこっちゃだったので、ぼくは彼の指をどけて自分でズームしていく。彼の興味を惹いたのはイギリスの法定速度らしい。
「これがどうかしたの?」
「お前、本当に大学行っているのか。これを見て、何も気づかないのか」
 同じ大学で同じ講義も取っているのだから、その文句の付け方は怒りというよりも笑いを誘った。けれどもぼくはなるべく真剣になって考えてみた。すると他とは明らかに違うところがあった。「イギリスだけ、速度が中途半端な数字だ」
「ご明察。これでお前が複数でないたった一人の人間だということが証明されたな」
 彼の言っていることはちんぷんかんぷんだったが、ぼくはにやにやしながら頷いた。「でも、どうしてイギリスだけこんな半端な数字なんだろう? 他の国では、50とか、100とか、130とかなのに、ここだけ、112とか、96とか、48だ」
「ふふ……その答えはだな」と萩原はもったいぶった調子でぼくの指をどけてスマホを操作しだした。見ると、別のウィンドウが二つほど既に開かれている。こちらが場末の田舎道を神経使って運転している間、彼はヨーロッパの法定速度をダシにして、ぼくへのちょっとしたプレゼンテーションをずっと準備していたらしい。それでぼくは急に冷めた気分になったが、断ったところでまた車を停められるに違いないので、最後まで付き合うことにした。彼は二度ほどぼくをちら見した。表情は新しい悪戯を思いついた小学二年生そのものだった。
「ふふ……これを見ろ!」
 じゃん! とばかりに示してくれた頁は知恵袋だった。萩原から無理矢理スマホを取り上げて読むと、イギリスのメートル法とマイル法についての内容だった。この国では二つの距離の単位が混在して使われており、混在の仕方も世代によってだいぶ違うらしいということだった。このことは距離だけでなく他の基準にも言えることで、若い世代は国際的な基準の方を、学校で教わってそのまま使い続けるが、もっと年寄りになってくると、未だにストーンなどの地域的な基準を用いているらしかった。
「どうだ? 何かピンと来るものがないか」
 萩原が自信満々の顔でぼくとスマホの間に割り込んできたので、ぼくは堪らず顔を背けた。彼のごわごわした茶髪は苦手で、その長髪スタイルは明らかに時代に逆行したものだったが、仲間の内ではわりに好意的に迎えられており、90年代のビーイング系バンドグループを熱心に聴く先輩の学生によく付き纏われているという噂だった。
「イギリスだけ、メートル法じゃなくてマイル法で法定速度を定めている。マイルに換算すれば、50とか100とか切りのいい数字になるはずだ。でも、グラフは便宜上全てのデータがメートルに統一されているから、イギリスだけ中途半端な数字になってしまった」
「おお、まるで入試の回答例みたいだな」
 だが、こちらの答え方と口調から、彼も少しは察してくれたらしい。発見というものは、発見した当の人からすれば驚くべきことに違いないが、他の人からしたら大体において気乗りのしないものなのだ。
「それよりもさ、ねえマサ、これ見てよ」
 萩原の髪に妨害されながらぼくは画面の一点を指差す。
「ここに、ストーンってあるでしょ」
「おおあるな。これがどうした?」
「イギリスでは、10ストーンとか50ストーンとかっていう基準が、一昔前までは普通に使われていたらしいんだ」
 ぼくは萩原にもよく見えるよう、「ストーン」の文字を中心に文章をズームした。そして彼が「確かにそうだな。こりゃ世紀の大発見だ」と言ってくれるのを待ち構えていた。だが彼はいつまでも無言を貫いていた。
「あれ?」
 萩原の顔が徐々に離れていく。異国の風土料理を、それがまずいと知らされた直後に頬張ってしまったような表情を浮かべている。唇に手をやり、数学の難題を証明するために頭の中で公式を整理し、順序立てて説明していくための手順を試行錯誤している。
「ピンと来なかった? ストーン」
 ぼくはこの知恵袋の回答頁において「ストーン」の語句がいかに唐突に現れたのか、それがどれだけ場違いでおかしみを誘うものであるのかを必死に説明した。しかし言葉を重ねるほどぼくと萩原の距離が離れていくような気がして、心の中には次第に空虚感が広がった。つっかえながらもようやく結論(だからぼくはストーンに興味を惹かれたんだ)に辿り着いた時、萩原は恐る恐るといった感じで口を開いた。
「で、何が言いたかったんだ?」
 ぼくは愕然とした。この面白さがわからないなんて! でもこちらにしても、萩原のプレゼンの内容には大して興味を覚えなかったことを思い出して、何も言えなくなってしまった。ぼくはスマホを萩原に返した。萩原は黙ってそれを受け取り、しかし何も操作をすることなく、後部座席の空いている方に裏返しに置いた。
「喉、乾いたな」
 萩原の言いたいことを理解してぼくは車を動かした。

「ところでさ」
「あ?」
「もう一つの頁には何が書かれていたの?」
「お前、よく見てるよな。笑いのツボは謎だけれども」
 その話は終わったでしょと突っ込もうとしたところで、萩原がスマホをハンドルの近くに寄せてきた。運転中だったが、今度は文字も大きくて、彼がその頁で何を伝えたいのかも容易に受け止められたので、ぼくは「うーん」と唸るしかなかった。
 その頁には写真付きでこう書かれていた。【イギリス旅行を112%満喫するための観光スポットBest48】
 今まで貯めてきたお金をほとんどこの真っ赤な中古車に使っちゃったんだ、その直後に旅行の話だなんて馬鹿げているよ。そういう意味のことを続けて言おうとしたが、また場が白けるのも嫌だったので、「そうだね、外国でドライブも面白そう」と濁しておいた。
「その暁にはお前、ストーンヘンジに?」
「もう勘弁してって」
 萩原の痛快な笑い声と車のガタンという音が重なった。運悪く大きな石でも踏んでしまったのだろう。

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