語る

水野洸也

「僕は、ちょっと、死んでこようと思う」私の友人はそう口にした。狭いカフェの店内で、その言葉はさほど不自然には感じなかった。あるいは彼がそう言うのを、私はとうに予感していたからなのかもしれない。だからなのだろう、「なぜ」と質問をする気にはどうしてもなれなかった。彼は自分だけで自殺を決意した。私にできることといえば、彼の話をその通りに聞いてやることのみだっただろう。私の口から最初に飛び出したのは、「そうか」というあっけらかんとした一言のみだった。
 友人は明らかに異常な顔つきをしていた。先ほどからは、私の方を見もしなくなった。待ち合わせをして、会って、話したての頃は、これまで通りの話ができていたように思う。互いに仕事を始めて、会う機会が減ってしまった。大学時代とは違い、必要すべからく会う人間も多くなった。しかしその分、内側に溜め込まれるものはものすごい量で、たまに顔を合わせては、大部分が社会全体に対する不平不満になってしまうのだが、そういうことを冗談まじりに話していたものだ。もう四年目にもなる。本来であれば酒もまじえつつ、二人して危ない言葉を叫んだり、時には殴り合いだってして然るべきだった。それが社会人にとって普通のことであり、俺たちも社会人になったらああいう人間になっちまうんだなあと、学生食堂でテレビを見ながら話していたものだ。だが、いざ社会に出てみると、想像していたことの半分もが現実とはかけ離れたものだったということが、身体を通して実感できた。大声で叫ぶなんて所業など不可能であったばかりか、最も親密であったこの友人との会話すら、おぼつかないものとなり、一抹の本音も、ともすれば言葉の端々に引っ込んでしまうというありさまだった。意識的に会い、徐々に大学時代の打ち解けた感覚は取り戻せたものの、酒だけは飲まないようにしようということは、我々の暗黙の了解となっていた。話す時も、あからさまな悪口にはならないよう、できるだけ穏便に、論理立てて話すことを心がけた。我々が何に恐怖していたのかはわからない。誰かにそうするよう強要されているわけでもない。だが、我々は慥かに、そんな「大いなる存在」とでも呼ばれるべきものの歯車と化してしまったのであり、その枠内でしか行動できなくなってしまったのだということを、全面的に認めるしかないわけだった。このことは、友人にもはっきりしたことだとばかり思っていた。
 友人は酔ってはいないらしかったが、しかし別のものに酔っているようでもあった。手は忙しなく脚の上を這い回り、言葉遣いも時間の経つごとに乱れが顕著になってきていた。そうしてあのとどめの一撃というわけだ。「死んでこようと思う」と私の友人は言った。それが決して空耳でないことは、彼がまさにそのようなことを言いそうな典型的な雰囲気を醸し出していることから、何らかの決定的な証拠がなくとも明らかだった。
「具体的に、いつ死のうとか、そういうことは」
「いつかどうかは、決められない。でも、きっかけさえあれば、すぐにでも僕は死ぬつもりだ」
 友人はアイスコーヒーを飲んだ。口を離した時に、水滴がストローから飛び散ってテーブルを濡らした。私はそれを自分のハンカチで拭いた。友人は「ありがとう」と小さな声で言った。「こんなこと、何でもないよ」と私は答えた。その後は沈黙が続いた。何だこのやり取りはと思った。
「大きな失敗はしていないつもりだった」と友人は堰を切るように話し出した。「でも僕は、いつのまにか周囲に大きな迷惑をかけていたようだったんだ。僕はそれをつい最近まで知らなかった。知ったのはある一つの出来事からだった。彼らは僕のことをさんざん馬鹿にしていた。彼らはこの国でない、けれども結構近くの国からやって来たとんでもない連中だった。彼らは自分たちでこそこそと彼らだけにしかわからない言葉で情報を交換していた。僕は彼らをうまくまとめ上げなくてはならなかった。本来であればもう少し立場が上の人間がその職に就く予定だった。けれどもなぜか、僕が抜擢されたんだ。行く前は、非常にやりがいのある仕事だと聞かされていた。いくつかの励ましの言葉も頂いた。けれども行ってみてわかったんだ。自分は面倒な仕事を押しつけられたのだ、ということに」
 そこで友人は言葉を切った。依然として彼は私の方を見ず、あたかも隣の見知らぬ人間に話しかけているようだった。しかし隣のテーブルには誰も座っていなかった。
「僕は見捨てられたんだ。初めのうちは、できる限りのことはした。ほとんど言葉の通じない、そのくせ態度は尊大で、一応の仕事はするけれども同じ人間と仕事をしているとはとても信じられないあの連中をまとめ上げることはそもそも不可能だったけれども、僕は頑張った。頑張ったんだ。でも、それを認めてくれる人などいるわけもなくて、認めることができるのは僕ただ一人だけだった。そのうちこちらの方で、ミスが目立ち始めた。けれどもそれを、僕は彼らの責任だとばかり思い込んでいた。それが彼らの責任じゃなく僕自身に問題があったんだということに気づいたのは、最近のこと、一週間も前のことだった。彼らは急に、たどたどしいながらも僕に対して親切になったんだ。まるで立場が逆転したみたいだった。僕が部下で、彼らが上司みたいだった。それも有能な上司を、彼らは拙いこの国の言葉で演じようとしていた。こういう扱いを受けて、僕はもう我慢ならなくなっちまったんだ。こうして振り返ってみると、僕はどうやら、言葉の通じない彼らをまとめようとするのに、少なからず熱を上げていたんだろうね。それが、ついに不可能であることがわかってしまえば、僕はもう、ネジの外れた機械人形みたいに狂うほかないじゃないか。一週間前のその出来事を機に、僕はその仕事場を勝手に離れてしまった。電話にも出ていない。僕は今、社会的に非常に孤立した状態にあるんだ。いつ逮捕されてもおかしくないかもしれないな。僕は仕事を、自分の弱さだけで放り出してしまった犯罪者なのだから」
「ちょっと」
「君にこんな話をしても意味がないことはわかっているよ。それくらいの判断力は残っている。でも、君は僕の大切な友人だから、話さないわけにはいかなかったんだ。余計な心配をかけてしまうかもしれないけれど、君に励まされることをついに期待してしまった。でも、これももう終わりにした方がいい。多分もう、何もかもが手遅れになっちまったんだ。僕は一時間後にはこの世にはいないだろう。君は僕の死ぬところを、最後まで見届けてくれるかな」
「どうか落ち着けよ」
 しかし互いに落ち着けるわけがなかった。私たちはいつのまにか立ち上がり、周囲への遠慮呵責なしに、あれこれどなり散らしていたらしかった。友人が長々と所信表明をしている間、私は自分がどれだけ口を挟み、彼の話を遮ろうとしたのかを意識できていなかった。だが、今こうして反省してみるに、友人だけでなく私の方も、熱くなって、あの大学生時代のように、友人に対して正直な言葉を、怒りをまじえながらではあるが、叫んでいたようなのだ。その証拠に、店内の数少ない視線は漏れなく友人と、それから私に向けられていた。私はそれを冷静になって観察した後、未だわめき続ける友人を外に連れ出した。オーナーに「すみません」と一応頭は下げておいたが、オーナーは魂が抜けてしまったように私たちを見つめていた。或いは魂の抜けていたのは我々の側だったのかもしれない。

 店を出た後はしばらくその場に留まった。友人の動悸が激しくて、動こうにも動けなかったからだ。飲み物を、と思った矢先、友人は私の手を離れ、街路をひた走っていった。咄嗟のことで私は反応ができず、残されたのは、彼の僅かな手荷物だけになってしまった。
 私は興味本位から、彼の鞄を覗いてしまった。中身はほとんど入っておらず、一冊の文庫本と紫色の罫線ノートがあるのみだった。『自殺について』という本のタイトルを確認した後、私はノートの方をめくってみた。だが、一面ごとにびっしり書かれた判読不可能な文字の羅列と、ところどころ破られた奇怪なページを目にした瞬間にはもう、私はノートを閉じていた。何も考えられず、空ばかり見上げ、だいぶ経ってからようやく、追えない自分への失望感が網目のように広がった。信じたくはない、今もそうだ、けれども一方で、私の部屋に未だに鞄が置き去りにされたままという事実が、私を真っ向から否定する。

 二日前、あの時もしも、ということばかり考える。そのたびに、二度と開かれることのないノートの中身が頭をよぎり、私の脚を竦ませる。

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