機械人間
ヤマダヒフミ
あらゆるものが機械に見えた。正確には機械人間と言うべきだろう。二十年前のある日、私は、全ての人間が機械であるという事を知った。心や感情なんてものはない。奴らは、心があるかのように偽装しているロボットに過ぎない。私以外の全てはロボットだ。機械だ。ただの機械だ。世界は全て機械でできている。草木、植物、動物、天空、海。あらゆるものが機械でできている。それらは全て、あるメカニズムによって精確に作動している。それを作ったのが誰かはわからない。人間ではないのかもしれない。あるいは、人間は歴史の中で少しずつ、機械に置き換えられていったのかもしれない。人間は機械を発明したが、時間を重ねるにつれ、機械に支配されるようになった。人間の数は減り、機械に置き換えられていった。天空も動植物も大地も皮下で作り変えられていった。
私が機械でない事は確かだった。なぜなら、私には感情があり、心があったからだ。私には思考が、意識があった。機械ではなかった。私は心ある人間だった。私一人、私一人だけが機械世界において、人間だった。そんな中で、まともに生きていく事が可能だろうか。
ビジョンが顕現した時、私は真に安堵した。世界は所詮、機械共の支配する場所にすぎないのだ。私は安堵した。以前から、私が人々に、いや世界全体に感じていた疎外感、よそよそしい感じ、全ては他人事だという人々の冷笑……そうしたものの正体をかいま見た気がした。私はほっとした。なんだ、簡単じゃないか。世界は所詮、冷徹に動く機械にすぎない。彼らに感情も心もないのだ。だとしたら、彼らに気を使う必要などないではないか。
その頃、私は職を持っていたが、ビジョンがやってきてからは、色々な事を気にしなくなった。職場でミスをして上司に叱られても、同僚に嫌われる事になっても、全く気にしなくなった。彼らは全て、演技をしているにすぎない。そんな振る舞いをする事、つまり、心があるかのように振る舞う事を命令されているにすぎないのだ。彼らは機械なのだ。簡単だ。私は生きていく上で最低限の金銭だけを労働から得て、残りの時間は部屋にこもっていた。私にはビジョンがあった。機械人間と休みの日まで付き合うのはうんざりだった。休みには、近くの公園に出かけたりした。夜、暗い公園でブランコに乗ったりした。世界が機械だという事は知っていたが、自然の中にいると、この機械世界は実によくできているなと感心する気持ちにもなった。
そんなある日、私は人を殺した。詳しく顛末を話す気はない。簡潔に語ろう。夜だった。私はぶらぶらと歩いていた。ゆったりと歩いていたが、後ろから誰かがやってきて、肩にぶつかった。そいつは急いでいる様子で、謝りもせず前方に早足で歩いていった。スーツから察するに、サラリーマンなのだろう。私はカッとした。腹を立てて、懐に入れていたナイフを取り出した。どうしてナイフを携帯していたかと言うと、機械人間が暴走した時に、戦う為だ。機械への護身用に持っていた。私はナイフを取り出し、男を追った。男の背中に思い切りナイフを突き立てた。男は意味の分からない叫び声を上げたが、無視して、何度もナイフを突き立てた。二十回ほど突き刺した時には、男は倒れていた。ピクリとも動かなかった。気がつくと男にのしかかって何度も刺していた。私は返り血でびっしょり濡れていた。男が完全に死んだ事を確認すると、周囲を見渡した。この様子を誰か見ているかもしれないと考えたのだった。女が一人、震えて縮こまってるのが見えた。女は五メートルくらい先で、腰を抜かして震え上がっていた。私は躊躇する事なく、ナイフを持って女に近づいた。女は逃げなかった。私は女にもナイフを突き刺した。男にしたのと同じように、何度も何度もナイフを突き刺した。
私は二人の人間を殺した。二十年前の話だ。ビジョンがやってきてから、ほどなくして二人殺した。私はあっさりと捕まった。朝、アパートのドアを叩く人間がいて、ドアを開けると刑事が二人いた。彼らはフランクな調子で話しかけてきた。「署まで来てくれないか」 彼らは警察手帳を見せた。逮捕状が既に出ていた。証拠は沢山残っていた。私は裁判にかけられた。残忍な犯行だと裁判官は言った。私は「反省の様子」を全く見せていないとの事だった。裁判官・検事・弁護士が言う事は私にはどうでもよかった。彼らも機械の一種であるから、定められたプログラムをなぞっているにすぎなかった。彼らはいかにも人間であるかのような調子で話した。だが、真実を知っているのは私だけだ。私が殺した二人も、機械人形にすぎない。
私は死刑になった。私にとってそれはさすがに、ショックな出来事だった。どうして機械共が、世界で唯一無二の人間を捉えて死刑にできるだろう。そんな事は許されるはずがない。だが、そんな思いを語る相手はいなかった。私の味方のような顔をしていた弁護士も作り物にすぎなかった。
以降、二十年の間、私は獄中にいた。親は既に死んでいて兄弟もおらず、友人もいなかったので、さっぱりしたものだった。もちろん、彼らがいた所で機械なので、同じ事だが。二十年の歳月は霞がかかったようなもので、あまり記憶がない。毎日、同じ事をしていた気がする。一月に一度出る甘いデザートが愉しみとなっていたが、それも、ほんの小さな愉しみにすぎなかった。看守も囚人も機械だったので、彼らを遠ざけていた。囚人達とはほとんど関係がなかった。彼らは勝手に群れていたが、私は一人でいた。二十年の歳月、自分の意識と感情に集中していた。私だけがただ一人意識を持った人間なのだという思考が私を支え続けた。虚偽の世界で私のみが本物の存在なのだ、という信念を持ち続けた。だが、そんな私も機械の掟のせいで、死ななければならない。それは悲しむべき事にも思えたが、悲しみを伝える相手はいなかった。二十年、私は待った。死ぬ時を。死刑が執行される時を待っていた。
私はこんな風に考えていたのだ。死によって、私は、機械の世界から解き放たれるだろう。悪夢から解放され、ようやく、まともな人間のいる世界に戻れるだろう。私は機械を殺した事により死刑をくらった。本来こんな事は罪のはずがない。私はここにいるべきではない。本当の世界はここではない。そしてその場所へは、死を経由して始めて到達する事ができる。したがって、死刑執行は私にとって、夢から覚める瞬間のはずだった。その時を私は待った。そして、その時は来た。朝、看守が房の扉を開けた。「出てこい」 暗い目をした看守がいた。私は時が来た事を知った。
首に太い縄が巻かれていた。五分もしない内に、私は死ぬだろう。足元に台座があり、看守がスイッチを押すと、台座が開き、踏みしめるものがなくなる。すると縄は私の首にしっかりと巻き付き、私は死ぬ。簡単な話だ。処刑室に連れてこられる前に、仏像や聖書が置いてある部屋に連れて行かれた。温かいお茶とまんじゅうを一つ貰った。私は食べ、飲んだ。看守が温かい言葉をかけてきたが、ほとんど聞いていなかった。
さて、私はこれから死ぬ。これから死ぬにあたって、私は一片の後悔もない。機械共の世界から逃れられて、せいせいするというだけの事だ。
…だが、実を言うと、疑問がない事もない。二十年の歳月は心の奥で密かに、一つの疑問を作り上げていた。それは、この世界は機械世界ではなく、平凡な人間の世界ではないか、という事だ。その事を確かめる術はないものの、そういう可能性も考えられた。というのは、私が殺した二人目の被害者、女がナイフで刺される前の表情が脳裏にしつこくこびりついていたという事が原因だ。どうも、私にはあの表情は機械ではないように思えた。あんな恐怖の表情、顔全体が歪み、どんな希望もないのだと悟った絶望の顔は、どんな演技も機械も再現不可能に思えた。
この世界は人間の世界だろうか? 他人は私と同じように心と意識があるだろうか? …いやいや、私は心のなかでかぶりを振る。そんな事があるわけがない。全ては機械の演技にすぎない。あの女もそうだ。私だけが、私一人だけが人間なのだ。私だけが心を持っている。私だけが。
「パカッ」と音がして、足元の地面が消えた。看守がスイッチを押したらしい。首に縄が強く巻き付く。それらの瞬間は全て、非常にゆっくりなものに感じる。時間が引き伸ばされたかのような感じだ。私はうっすらと微笑していたと思う。全体重を縄が支えていた。首が強く圧迫されていく。「ゴリッ」という音が聞こえた。何の音かはわからない。音が聞こえたのを最後に、私の意識は消失していった。
私が機械でない事は確かだった。なぜなら、私には感情があり、心があったからだ。私には思考が、意識があった。機械ではなかった。私は心ある人間だった。私一人、私一人だけが機械世界において、人間だった。そんな中で、まともに生きていく事が可能だろうか。
ビジョンが顕現した時、私は真に安堵した。世界は所詮、機械共の支配する場所にすぎないのだ。私は安堵した。以前から、私が人々に、いや世界全体に感じていた疎外感、よそよそしい感じ、全ては他人事だという人々の冷笑……そうしたものの正体をかいま見た気がした。私はほっとした。なんだ、簡単じゃないか。世界は所詮、冷徹に動く機械にすぎない。彼らに感情も心もないのだ。だとしたら、彼らに気を使う必要などないではないか。
その頃、私は職を持っていたが、ビジョンがやってきてからは、色々な事を気にしなくなった。職場でミスをして上司に叱られても、同僚に嫌われる事になっても、全く気にしなくなった。彼らは全て、演技をしているにすぎない。そんな振る舞いをする事、つまり、心があるかのように振る舞う事を命令されているにすぎないのだ。彼らは機械なのだ。簡単だ。私は生きていく上で最低限の金銭だけを労働から得て、残りの時間は部屋にこもっていた。私にはビジョンがあった。機械人間と休みの日まで付き合うのはうんざりだった。休みには、近くの公園に出かけたりした。夜、暗い公園でブランコに乗ったりした。世界が機械だという事は知っていたが、自然の中にいると、この機械世界は実によくできているなと感心する気持ちにもなった。
そんなある日、私は人を殺した。詳しく顛末を話す気はない。簡潔に語ろう。夜だった。私はぶらぶらと歩いていた。ゆったりと歩いていたが、後ろから誰かがやってきて、肩にぶつかった。そいつは急いでいる様子で、謝りもせず前方に早足で歩いていった。スーツから察するに、サラリーマンなのだろう。私はカッとした。腹を立てて、懐に入れていたナイフを取り出した。どうしてナイフを携帯していたかと言うと、機械人間が暴走した時に、戦う為だ。機械への護身用に持っていた。私はナイフを取り出し、男を追った。男の背中に思い切りナイフを突き立てた。男は意味の分からない叫び声を上げたが、無視して、何度もナイフを突き立てた。二十回ほど突き刺した時には、男は倒れていた。ピクリとも動かなかった。気がつくと男にのしかかって何度も刺していた。私は返り血でびっしょり濡れていた。男が完全に死んだ事を確認すると、周囲を見渡した。この様子を誰か見ているかもしれないと考えたのだった。女が一人、震えて縮こまってるのが見えた。女は五メートルくらい先で、腰を抜かして震え上がっていた。私は躊躇する事なく、ナイフを持って女に近づいた。女は逃げなかった。私は女にもナイフを突き刺した。男にしたのと同じように、何度も何度もナイフを突き刺した。
私は二人の人間を殺した。二十年前の話だ。ビジョンがやってきてから、ほどなくして二人殺した。私はあっさりと捕まった。朝、アパートのドアを叩く人間がいて、ドアを開けると刑事が二人いた。彼らはフランクな調子で話しかけてきた。「署まで来てくれないか」 彼らは警察手帳を見せた。逮捕状が既に出ていた。証拠は沢山残っていた。私は裁判にかけられた。残忍な犯行だと裁判官は言った。私は「反省の様子」を全く見せていないとの事だった。裁判官・検事・弁護士が言う事は私にはどうでもよかった。彼らも機械の一種であるから、定められたプログラムをなぞっているにすぎなかった。彼らはいかにも人間であるかのような調子で話した。だが、真実を知っているのは私だけだ。私が殺した二人も、機械人形にすぎない。
私は死刑になった。私にとってそれはさすがに、ショックな出来事だった。どうして機械共が、世界で唯一無二の人間を捉えて死刑にできるだろう。そんな事は許されるはずがない。だが、そんな思いを語る相手はいなかった。私の味方のような顔をしていた弁護士も作り物にすぎなかった。
以降、二十年の間、私は獄中にいた。親は既に死んでいて兄弟もおらず、友人もいなかったので、さっぱりしたものだった。もちろん、彼らがいた所で機械なので、同じ事だが。二十年の歳月は霞がかかったようなもので、あまり記憶がない。毎日、同じ事をしていた気がする。一月に一度出る甘いデザートが愉しみとなっていたが、それも、ほんの小さな愉しみにすぎなかった。看守も囚人も機械だったので、彼らを遠ざけていた。囚人達とはほとんど関係がなかった。彼らは勝手に群れていたが、私は一人でいた。二十年の歳月、自分の意識と感情に集中していた。私だけがただ一人意識を持った人間なのだという思考が私を支え続けた。虚偽の世界で私のみが本物の存在なのだ、という信念を持ち続けた。だが、そんな私も機械の掟のせいで、死ななければならない。それは悲しむべき事にも思えたが、悲しみを伝える相手はいなかった。二十年、私は待った。死ぬ時を。死刑が執行される時を待っていた。
私はこんな風に考えていたのだ。死によって、私は、機械の世界から解き放たれるだろう。悪夢から解放され、ようやく、まともな人間のいる世界に戻れるだろう。私は機械を殺した事により死刑をくらった。本来こんな事は罪のはずがない。私はここにいるべきではない。本当の世界はここではない。そしてその場所へは、死を経由して始めて到達する事ができる。したがって、死刑執行は私にとって、夢から覚める瞬間のはずだった。その時を私は待った。そして、その時は来た。朝、看守が房の扉を開けた。「出てこい」 暗い目をした看守がいた。私は時が来た事を知った。
首に太い縄が巻かれていた。五分もしない内に、私は死ぬだろう。足元に台座があり、看守がスイッチを押すと、台座が開き、踏みしめるものがなくなる。すると縄は私の首にしっかりと巻き付き、私は死ぬ。簡単な話だ。処刑室に連れてこられる前に、仏像や聖書が置いてある部屋に連れて行かれた。温かいお茶とまんじゅうを一つ貰った。私は食べ、飲んだ。看守が温かい言葉をかけてきたが、ほとんど聞いていなかった。
さて、私はこれから死ぬ。これから死ぬにあたって、私は一片の後悔もない。機械共の世界から逃れられて、せいせいするというだけの事だ。
…だが、実を言うと、疑問がない事もない。二十年の歳月は心の奥で密かに、一つの疑問を作り上げていた。それは、この世界は機械世界ではなく、平凡な人間の世界ではないか、という事だ。その事を確かめる術はないものの、そういう可能性も考えられた。というのは、私が殺した二人目の被害者、女がナイフで刺される前の表情が脳裏にしつこくこびりついていたという事が原因だ。どうも、私にはあの表情は機械ではないように思えた。あんな恐怖の表情、顔全体が歪み、どんな希望もないのだと悟った絶望の顔は、どんな演技も機械も再現不可能に思えた。
この世界は人間の世界だろうか? 他人は私と同じように心と意識があるだろうか? …いやいや、私は心のなかでかぶりを振る。そんな事があるわけがない。全ては機械の演技にすぎない。あの女もそうだ。私だけが、私一人だけが人間なのだ。私だけが心を持っている。私だけが。
「パカッ」と音がして、足元の地面が消えた。看守がスイッチを押したらしい。首に縄が強く巻き付く。それらの瞬間は全て、非常にゆっくりなものに感じる。時間が引き伸ばされたかのような感じだ。私はうっすらと微笑していたと思う。全体重を縄が支えていた。首が強く圧迫されていく。「ゴリッ」という音が聞こえた。何の音かはわからない。音が聞こえたのを最後に、私の意識は消失していった。
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