羊料理専門店

東堂栞

 私がその人と出会ったのは、特に美味しい料理が出てくるわけでもない、ぬるいビールが出てくるどこにでもあるようなチェーン店の居酒屋でした。
「君はこの店が好きで来たのかい?」
「いいえ、お腹が空いたから来ただけです」
 その人はカウンター席はまだ空いているというのに私の隣に座り、話し始めました。
「なぜ、その選択を許すのだ」
「許す、とは?」
「決まっている! 君は空腹に甘んじてこの店を選んだ! 十把一絡げもしない、ドブ水と汚泥を出すようなこの店をだ!」
 変な人に絡まれました。お店の人がこちらに気付かないかひやひやします。
「そんな大きな声を出さないで下さいよ。別に良いじゃないですか」
「いいや、良くない。食事とは理性ある人間に許された行為だ。そうであるからには美味い料理を食べなければならない」
「はあ」
「それを空腹に敗北し、不味いという言葉を冠することさえおこがましいドブ水と汚泥を出すような店で食事をとるとは何事か! 君は人間ではないのか! 理性を以て食事を尊ぶ人間ではないのか! 空腹に従う獣で良いのか!」
「逆にあなたはなぜこの店に入ったのですか?」
 私は半分聞き流しながら率直な疑問を彼にぶつけました。彼も空腹でこの店に入ったのならば自分の言葉で言うところの空腹に従う獣になりますが――
「ああ、君があまりにもつまらなさそうな顔をして店に入るのを見て気になったのだ。ドブ水と汚泥とはいえ食事は食事だ。獣でももう少し嬉しそうな顔をするものだぞ?」
 失礼な奴だなとか、ストーカーか何かですかとか、仕事で疲れているだけなので放っておいて下さいとか色々言いたいことがありました。言葉を返さなかったのはちょっと頭のおかしい彼との会話をこれ以上続けたくなかったからです。
私は温いビールとフライドポテト(フライドポテトは素晴らしい。温いビールを出す居酒屋だろうと、潰れたハンバーガーを出すお店だろうとしょっぱさだけは保障されています! 塩味は正義。ケチャップも忘れずに)を食べ終えて席を立とうとしました。
「ああ、待ちたまえ。この店に行くと良い。空腹に甘んじた選択ではなく、君自身が美味を求める時にのみ、この店へ行くのだ」
 彼がくれた名刺には「羊料理専門店」と書かれていて、裏を見ると簡単な地図と住所、定休日が月曜あることが分かって、その上から黒いインクでその人のサインが書かれていました。達筆すぎて彼の名前は分からずじまいです。



 居酒屋で彼との出会いから二週間後。私は羊料理専門店へと来ていました。鞄を整理していたら名刺が出てきたので行ってみよう、と思ったのです。正直言うと、名刺が出てくるまで彼との出会いとのことはすっかり忘れていました。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね?」
 私は頷いて受付の女性に彼から貰った名刺を渡しました。
「紹介状はお持ちですね。ありがとうございます。拝見させて頂きます――はい、結構です。○○様からの紹介となれば、私も腕が鳴るものです。では、こちらの席へどうぞ」
 彼女の発音が悪いのか、私の耳が悪いのかは分かりません。居酒屋の彼の名前を聞き取ることはできませんでした。

「まずは前菜、羊肉の醤漬けの盛り合わせでございます。左側から頬肉、前足の指、臀部の皮となっています。それぞれ別の壺にて漬け込まれておりますので食感、味の違いをお楽しみください」
 ウェイトレスのお姉さんがテーブルに置いた皿の上では、赤黒い肉が三つ、並んでいました。
 頬肉は薄切りのハムのようなもので、見た目に反して力強い食感と酸味を主張してきます。前足の指は白い骨が見た目から自己主張をしていましたが、口に入れるとほろりと溶けて甘辛いです。臀部の皮はさっぱりとした風味でするりと食べられました。
「続きましてはこちら、羊の睾丸のスープでございます。十七種の野菜と香草、十九種の魚介類を十時間煮込み、その上澄みを使って睾丸を六時間煮込んだものです。煮込んで柔らかくした睾丸に数多の食材の風味を染み込ませることで複雑かつ濃厚な味わいをもたらす一品でございます」
 睾丸と聞いて思わずぎょっとしましたが、口に入れてみるとぶよぶよとも、こりこりともとれる面白い食感です。噛んでいると口の中でスープが浸み出してきてお姉さんの言う通り、複雑な味わいがしました。
 語彙も舌も貧相なので複雑な味わい、としか述べることができませんがとっても美味しいです。
「続きましてはこちら、羊のフォアグラのソテーです。
 御存じの通り、フォアグラを作るのは大変な手間が掛かります。ガチョウと違い、羊は体が大きいですからね。適切に太らせて、その上でお客様にお出しできる味のものになると――半年に一つか二つといったところでしょうか」
 私はもうフォアグラという言葉が聞こえたところでお姉さんの説明がもう聞こえていませんでした。あの三大珍味の! フォアグラが! しかも羊バージョン!
 お皿には私の握り拳の半分ほどの肉がスライスされていて、その上にソースがかかっていました。ネームバリューだけで美味しさを感じている部分も否定できないですが、肉の脂を濃縮したようなうま味は強烈でした。フォアグラというからには脂で胸焼けするかと思いましたが、かかっていたソースがさっぱりしていたおかげで食べられました。
「さて、お待ちかねのメインディッシュでございます。羊のステーキです。部位は最も柔らかいとされる雌羊の太ももの内側の肉を使っています。レアに焼き上げておりますので素材本来の血と野性味あふれる味を楽しんで頂くことができます」
 ステーキは肉の表面にうっすらと血がまだ残っていて、皿にも小さな血だまりを作っていました。
 一口噛むと肉汁と血が口の中で暴れ出して口からこぼれてしまいました。力強い筋肉の部分と、歯が触れただけで溶けるような柔らかい脂身の部分が相まって得も言われない味わいでした。これを食べると自分が今まで食べていたステーキがすかすかのスポンジに感じられてしまうほどでした。
「デザートはこちら、羊の血のシャーベットです。レモンリキュールをくわえてお口直しに最適なものとなっています」
 血ィ!? と思わず驚きましたが、口に入れてみると血の風味はそれほど感じず、案外さっぱりした味わいです。ステーキの脂で粘ついた口の中がレモンの風味と冷たさですっきりしました。

 全ての料理を食べ終えて店を出た私は改めてお店の看板を見上げます。そこで「羊料理専門店」の下に小さく書かれている文字に気付きました。
「アミルスタン羊……どこの国の羊なんでしょう?」



 アミルスタン羊。それは地球上で最も個体数が多い生物。ざっと七十億。


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