ワンのばか

おかわり

 空には煌々と凶星、草木は枯れ、家畜は死に、人は病む。このところ相次ぐ天変地異により国は荒廃していた。
 その国なる小村に、ワンという独り身の男がいた。ワンは素朴で信仰篤い男だ。けして嘘をつかず、まじめに働く。おまけに、毎朝、村はずれの祠に花と食物とを供える。けれどもワンはこの貧しい村の中でもいちばん貧しい。何故か? 疑う心を知らず、なんにも欲がない。おまけに、毎朝、村はずれの祠に花と食物を供えるために財を使うから。
「ワンよ、どうしてお前の家の屋根なる穴をいつまでも直さないのだ」と隣人が問えば、
「おら、お寺さんで教えてもらっただ。神仙さまは雨の日も濡れるがままに生きていらっしゃるそうだよ。だったらよォ、おらン家の屋根もこれでいいだ」
「どうしていつもみすぼらしい恰好をしているのだ」
「お寺さんで教えてもらっただ。神仙さまはぼろきれしか着てねえだよ。だったらよォ、おらの着るもんなんか、これでいいだ」
「どうしていつも腹を空かしているのだ」
「教えてもらっただ。神仙さまは霞を食べて生きているンだ。だったらよォ、おらもたまにちょっと食えれば、それでいいだ」
 ワンは迷信こじらせた大馬鹿者である! こういって村の人々は嘲った。村でいちばん貧しいくせに、いちばん幸せそうなのが、気に食わなかったのである。
 ワンは少し思案して、黙したまま頷いた。

 ある夜、ワンはこんな夢を見た。ワンは広いひろい庭園にいた。あたり一面に桃の木が植わっており、その枝には旨そうな炙り肉が吊るされている。また、そこら中に酒の溜まった池があって、美男美女がその泉のほとりで楽しげに語らっていた。遠くの山を眺めていると、その中腹がぱかっと開いて踊り子がぞろぞろと出てきた。山だと思っていたのは、とてつもなく大きな御殿だったのである。
 背後から呼ぶ声があった。ふりむくと、垢だらけの、薄汚いぼろきれをまとっただけの翁が居た。
「おぬし、ここを極楽だと思うか」と翁が問うので、ワンのすぐさま答えるには、
「いんや、ご老人、ここは極楽じゃねえ。地獄だ」
「どうしてそう思う」
「あの顔を見るに、ここなる方々は、衣食住足りてまだ飽くることを知らねえ。まことの神仙さまだったら、衣食住足らずとも何ら不満することがねえ。よって、ここは餓鬼畜生が墜ちる地獄に違えねえだよ」
「わしの見込んだ通りの男よ、ワン」翁は目を細めた。そして続けて言うに、
「実はわしは仙人なのじゃ(ワンは驚いてひれ伏した)。信仰篤いおぬしに頼みがある。一年前、悪しき星辰の巡りのもと、凶星の仔、地に墜ちて、たちまち肉塊に変化した。名は太歳。あらゆるものの生気を吸い、ぶくぶくと増長しやがて瘴気を放ち始めた。それあらゆる草木を枯らし、あらゆる家畜を殺し、あらゆる人を病ませる。このまま放っておけば、村も、街も、ついには国までも滅ぼそう。このところの天変地異、すべてこれなるが因なり。俗界のこのありさま、わしも見るに忍びない。ただし自ら手を下すは神仙の禁。もう解るな。太歳を探し出し、再び天に送還せよ。これなるは天下の大事じゃから、すぐに旅立つがいい」
「へえ、仙人さま、必ずや!」と答えた時には、もう朝だった。屋根の穴から陽光が斜にワンの目を射た。まずは、祠に行かなくては。そして、旅立たなくては。

 その日のうちに村を出た。見送るもの誰一人としてなかった。村は高い山に囲まれている。必死に登るうち、昨夜の夢を思い出してなんだか可笑しくなってきた。やあ、御殿だ、御殿だ。山を越えるとあたり一面に桃の木が植わった大きな庭園があった。すべて枯れていて、枝には死体が吊るしてあった。そこら中にある酒のような匂いのする池には毒々しい色の魚が泳いでいた。おぞけをふるいながらそんな有様をみていると、向こうから痩せた男がやってきて言った。
「ワン様、お待ちしておりました。わたくしは皇帝に仕えている召使でございます。実は、姫が世にも珍しき病に罹っておりまして、ずっとお眠りになっておられるのでございます。皇帝は心配のあまり狂い、桃の木には罪なき民を吊るし、池には怪魚しか住めぬ猛毒を溜めて愉しみます。むろん政治は乱れ、いまや誰もが食うや食わずの毎日。ところで今朝、わたくしは皇帝に呼ばれたのです。そしてこう命を受けました、ワンという男が都に来るので連れて来い、と。是非ともご同行いただきたいが、よろしいか」
 ワンは少しばかり思案して、黙したまま頷いた。

「ワンなる男を連れてまいりました」
「通せ」
 黄金の巨大な扉を屈強な二人の門番が開いた。皇帝は玉座に寄りかかるようにして居た。この上なく高貴な身なりをしているが、既に威厳なく、目をぎょろつかせ白髪の乱れた様はまさに狂人である。
「ぬしがワンか。昨夜、ぬしを夢で見た」
「それはきっと神仙さまの思し召しでございますだ」
「余は娘を愛しておる。玉のように可愛い娘だ。それがあのような……ああ! ひと月前のこと、庭で遊ばせていたら、ああなったのだ。まさかわが庭園におったとは、凶星の仔が。奴をどうにかせよ。褒美はとらす、しくじるなよ」
 そうしてワンは姫の寝室に通された。ひどい悪臭が鼻をつく。豪奢な寝具に華奢な身体を横たえて、姫は静かな寝息を立てていた。しかしその口元からは濁った声の悪態が絶えず飛んでいる。
「はやく飯を持ってこい、召使ども」
「ワンはまだか、ああ、腹が減った」
「はやく持ってこいと言っておろうが。娘を食い殺すぞ」
 ワンは姫の顔をよく見た。その可憐な顎には醜く大きな瘤があった。赤黒くただれた、肉の塊である。罵声はそこから漏れているのであった。召使たちが次々と食物を姫の口元に運ぶと、それを肉塊がたちまちのうちに取り込んでしまう。――太歳は、いまや姫に取り付いていたのである。ワンは姫に、いや姫の瘤に向かって言った。
「やい、凶星の仔、太歳よ」
「誰だ? わが名を呼ぶのは」
「おらだ。ワンだよ」
「おお、貴様がワンか、待っておったぞ」
「頼むから、姫さまの身体から出てってくれ」
「では、代わりに貴様に憑くとするか」
「おらに?」
「そうだ。昨夜おかしな夢を見た。爺が出てきおってな、お前はかわいそうだ、そんな娘で満足して、というのだ。何故か、ときけば、ワンという男ほど旨い生気を持っているものもおらん、それに比べたら、とほざく。ああ、たまらん! 貴様、食われる覚悟はあるか?」
 ワンは少し思案して、黙したまま頷いた。

 顎に小さな瘤をつけたワンが村に帰ってきたのは、その夜のことだった。あたりは寝静まり、出迎える者もいなかった。ワンは家に戻ると、欠伸を一つして寝ころんだ。するとまた夢を見た。仙人があらわれ、ワンに問うた。
「太歳はどうしたね」
「すっかり黙っていますだ」
「わしの思った通りじゃ。良きかな良きかな」
「でも、どうして黙ってるかわからんです」
「それはな、太歳はものの生気を食らうからじゃ。生気というのは、そのものの欲。つまり太歳は欲を食らってぶくぶくと増長する。ところがおぬしには欲がない。強いてあるとすれば、真っ当に生きたい、という欲のような、欲でないような欲。こんなつまらぬ、他愛のない欲を食らえば腹をこわすは必定。太歳は、すっかり病に罹ってしもうたんじゃ。もう今晩にでも、星に還ってゆくことじゃろう」
「なるほどなあ。これからどうなります?」
「なにごとも、悪くはならんであろ。良くなるかはわからぬが」
 ワンは満足げに頷いて、夢の中でまた寝てしまった。屋根の穴から凶星の輝きが斜にワンの醜い瘤を照らした。
 次の朝、新たな祠の供物は供えられていなかった。怪しんだ村人がワンの家を覗くと、独り身の男はきれいな顔をして眠るように死んでいた。人々が騒いでいるところへ都から使いが来て、祠に花と食物とを供えた。皇帝からの約束の褒美である、と使者は言い、都へと帰っていった。

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