星孔隧道

一兎

 彼は食べ放題というシステムに期待していなかった。この店ではいくら満腹まで食べても料金一定とはいえ、料金設定を勘案した場合に、同じ代金を払った際に得られる対価は、従量制の店と大差ないかそれ以下であると踏んでいた。

 しかし、彼がこの店で得た体験は貴重なものとなった。それは期待を大きく超え、これが柿安の品質なのかと彼を感嘆させた。彼はその体験談を会社で彼の部下へ伝えると、さほどの時をあけずして彼女とその店に行くことになった。

――その日の夜空は絵画的であった。帳から漏れるような粘質な星の光は、拭えばにじむようである。月は天に大きく空いた孔で、そこからは釣り糸が垂れている。闇夜に歩く人間を月の光は獣に変える。獣は息を荒くして、食欲をみなぎらせて。

 彼の部下はいつもマスクをしていた。マスクといってもプロレスのマスクではない。彼は彼女に言った。

「何も言わなくていい。俺にはわかっている。お前がなんでいつもマスクをしているのかを」
「心肺(を鍛えるのが目的)なんだろ?」
 彼女は何も言わなかった。

――餌のない釣り針に食いつく魚はいない。それでは魚を得られないが、餌がなくとも魚を得る方法はある。それは「引っ掛ける」のだ。釣り針は口に入れるためだけのものではない。

 彼は彼の部下と、彼が勧めた食べ放題の店にいる。このとき、彼は彼女の様子に違和感がなかった。ただ、不自然なのはマスクを外さないことだ。
 彼は言った。食事のときにマスクを外さないで食べるなんて器用だねと。彼女は何も言わなかった。彼はステーキをオーダーしては平らげ、再びオーダーすることを繰り返していた。

――夜空の闇は、朝が来るのを忘れさせるように一層深くなるが、月の釣り人は獲物を得られないでいた。竿を振っては手ごたえのない感触を味わっていたが、ついに獲物を得ることに成功した。

 彼の部下は、次の日会社に来なかった。電話を掛けても繋がらない。無断欠勤は初めてのことだ。しかし、彼は昨晩食べすぎたこと、飲みすぎたことを思いながら、何も言わなかった。

――釣り人は獲物がつけていたマスクを外した。こんなものをつけているから釣り針にひっかかるのだ。しかし、外してみて気づいたことに、人間のように見えるそれは精巧な機械だった。これでは釣り人は満足いくわけがないが、釣り人はその機械に命を与えることにした。「行きなさい、お前は自由だ」。

 彼の部下は会社に出勤した。彼はこの前は飲みすぎたな、でも一報ぐらいはくれないと、のたれ死んでいるんじゃないかと思って心配するからなと言った。
 彼の部下は相変わらずマスクをしていてその全貌は窺い知れないが、申し訳なさそうな雰囲気が彼には伝わっていた。これに懲りずまた飲みに行こうと彼は言った。

――その隧道は入口から漏れる光からは考えられないほど、先の見えない長い道だ。彼女はこんなことであれば、腹ごしらえをしておくべきだったと思った。肉のことを考えると頭がおかしくなりそうだ。

 隧道を抜けると彼女は自分の親に会うような気持ちになった。ここは私が生まれた場所であると感じた。

 彼女は彼女の親に言うように言った。「おなかが減りました」と。釣り人は笑った。「それが生きているってことだ」。

 生きているというのはシンプルなことで腹が減るということだ。それを満たせるのが当たり前となっているのであればそれで十分だが、退屈という概念が生まれ、生きていくのに必要な時間が、生きているだけの時間となってしまった。

 生きているだけの時間の使い道は自由だ。その時間を仮に怠惰に過ごそうが、勤勉に過ごした人間との間に「幸せ」の差は大して生まれない。

 先進的な「幸せ」を強要されて、満足に限界はなくて。人間は次から次へと新しい何かを求めるが、それまでの生活を失っていく。今日も新しい価値に名前が付けられて、退屈な時間は無くなっていく。好きなものを好きなだけ食べて、空腹ですら時間との取引で得る。

 彼女は最先端の獣。最先端の獣は何を望むか。それはいかなる高次欲求であるか。それはどのように分類しようとも名前を付けるだけで原始より何も変わらない。釣り人は今日も釣り糸を垂れる。

――多様性を不要と考える人は極端な個性を植え付けられている。個性は自分のもので、あとは没個性でいいということだ。ごくありふれた直観的な価値を望む。機械にだってそう、野生を、獣を。機械は誰かの代わりではない。人間の仕事を退屈な時間にするものであってはならない。

 彼の部下はいつもマスクをしていた。今では彼はそれが当たり前だと思っている。衛生に気を使うのは自分だけでなく、他者への思いやりでもある。誰もが持っている基本的な欲求であって、彼が彼女にマスクを外して欲しいと思うことはない。

「今日の夜、肉を食いに行かないか」
 彼女の全貌は窺い知れないが、肯定的な雰囲気が彼には伝わっていた。

 その日の夜空は絵画的であった。帳から漏れるような粘質な星の光は、拭えばにじむようである。月は天に大きく空いた孔で、そこからは釣り糸が垂れている。闇夜に歩く人間を月の光は獣に変える。獣は息を荒くして、食欲をみなぎらせて。

 ここは食べ放題の店であった。肉を好きなだけ食べることができる。彼女は無意識にマスクを外した。彼は嬉々として言った。
「顔かわいいじゃん。絶対マスク外した方がいいよ」
 彼らはステーキをオーダーしては平らげ、再びオーダーすることを繰り返した。

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