エリヤの瓶

平 啓

 瓶と壷をのぞいたヨセは絶望にかられた。これで三日間、瓶には粉はなく、壷には油が満ちることはなかった。
 奇跡は起きなかったのだ。
 エリヤの瓶と壷。
 今の世にも待たれる大予言者の名をだして、義人には同じ奇跡が起きると、あの脚の悪い少年は確かに言ったのに。
 自分は義(ただ)しくなかったのか。そんなはずはない。学校(シナゴーグ)で一生懸命勉強し、家の手伝いに励み、弟妹友達に優しく接して、律法の教えをがんばって守ってきた。近所の評判を聞いた叔父が、ご褒美と小遣いまで送ってくれたほどだ。これを買ったのも、好きなように使いなさいと言ってくれた母のためだった。
 ふと、売りつけた少年の悪意が思いの端をかすり、ヨセはあわてて首を振った。
 疑いはよくない。きっと何か理由があるはずだ。もしかしたら、時期がまだ来ていないのかもしれない。だとしたらそれはいつなのか、あの少年に会って質す必要があった。
 そう決心して学校や手伝いの後、瓶を買った街の市(いち)を訪れたが、昼過ぎでは露店もまばらだ。聞き回るのは楽な一方、不自由な脚からすぐ見つかるとの予想は外れ、先々で誰もが首を傾げる。どうやら市の常連ではないようで、ヨセの話をきくたび、余所者を信用した少年へ哀れみの眼差しが向けられた。
 いたたまれない思いと当てもなくなって、道端の石に腰が落ちたところ。
「ヨセじゃないか。どうした、こんなところで」
 声をかけてきたのは、小遣いを送ってくれた叔父のピリポだ。以前は亡き父とともに湖で網を打っていたが、今は偉い先生(ラビ)について、ユダの地のあちこちを回っているという。久しぶりの対面に、一瞬浮かんだヨセの喜びはたちまち崩れて、あふれでた大粒の涙が両頬を濡らした。
「エリヤの瓶と壷か。へえ、その子がねえ」
 甥の話を聞いたピリポは唸った。
「叔父さん。きっとまだ主の時ではないんだよね。でも、いつまで待てばいいのかな。ヨナの三日は過ぎたけど、天地創造と安息の七日? ノアの大雨の降った四十日?」
 まさか荒野を旅した四十年じゃないよね――
 やつぎばやの質問の果てに上った失意に、ピリポはあわてて少年の肩を抱き寄せた。
「そうがっかりするな。奇跡は主のみこころもまま、人には思いもかけないと習っただろう?」
 大きな腕の懐かしい感触の中で、ヨセは小さく頷いた。
 長い飢饉の末、最後のパンを食べて死ぬばかりだったやもめに、エリヤがもたらした奇跡は予想外だったろう。粉のつきない瓶と油のつきない壷。彼らはそうして長らえた。
「まあ、な。とりあえず、瓶に粉を入れないとな」
 涙あとが残るヨセの顔に、ピリポは目配せした。
「ほら最初、やもめの瓶にも一握りは残っていただろう? 明日の魚のより分け作業に、いくらか手間賃をはずんでもらうといい」
 漁師頭には話を付けておくから、と請け負った叔父は、別れ際にヨセを祝福してくれた。

 朝焼けの中を舟がニ艘、ヨセのいる岸に向かってくる。船縁の低さと重たげな櫂の様子で大漁だとわかり、より分けに出ていた漁師達の家族から歓声があがった。
 浜に上げられるや皆は網に駆け寄り、早速作業の開始。律法に書かれている鰭や鱗のあるもの、ないものの選別だ。罪をもたらす汚れは、取り除かねばならない。いつものようにヨセが手早く仕分けていると、漁師頭のカレブが日に焼けた髭面を向けてきた。
「やあ、ヨセ。もうすぐエルサレムに上る歳だってな。俺もうっかりしてたぜ。ずっと同じ手間賃ですまなかった」
 これからは割り増しで払うからな、との皺の深い笑みへ、ヨセも嬉しく感謝を返した。
 そこで、おっ、とばかりに相手の視線があがり、つられてそちらを見れば、岸沿いの道から大小の人影が近づいてくる。一人は叔父のピリポで、もう一方は子供――ぎくしゃくと体を傾がせて歩くその姿。
 不機嫌な眼差しが、ヨセを認めて見開かれた。あわてて背を向けるが、叔父の手に首根っこを掴まれ、そのまま引きずられてくる。カレブと叔父との間にいくつかの言葉が交わされ、背を押された少年は渋々作業に参加した。
 ヨセがそっと窺うと、結構慣れた手さばきだ。次第に没頭しだした少年へ、ヨセは尻を少しずつずらして近づいた。はっと気づいた視線をすかさず捉える。気まずい中、横目で相手を意識しながらの作業がしばらく続いた。
「俺は食ったぜ。ナマズもイカもエイも」
 結構うまかった――いきなりの少年のつぶやきに、ヨセは目を丸くした。
「腹が減って死んじまうよりマシさ。そんだから義人なんて全然なれないし、奇跡なんて起きっこない」
 奇跡は起きない。
 なげやりに放たれた言葉が、ヨセの心を貫いた。
 悲しみが立ち上がる。生まれたばかりの弟が死んだ時も、父が嵐で帰らなかった時も、それは今回の瓶と壷に始まったことではなかった。ああ、そうだ。
 きっと自分は義人ではないのだ。一番に思いながら振り払ってきたが、やはりそれしか考えられない。
 目元が熱くなり、ヨセは鼻をすすった。
 地に投げ捨てられる、鰭や鱗のない忌むべき魚。
――でも。それでも。
「ねえ」と、消え入るような声を胸から押し出す。
「やもめが奇跡に与ったのは、エリヤのことばに従ったからじゃないのかな」
 最後の一握りの粉を、求めるエリヤのパンとして与えた。それは。
「エリヤの、義人のことばを信じたからじゃないかな」
 吐き出すばかりだった息を、ヨセはようやく吸った。
「僕はいつか奇跡をみれたら、いいな」
 選別を終え、漁師達が網を片づけるのを見ていると、カレブがやってきて、粉の入った壷をヨセに手渡した。なんでも叔父から今日は粉と指定があったらしい。少年の方は腰に下げていた小袋へ、小魚が一杯に詰め込まれる。
 報酬を手にした二人は、互いを窺いながら岸沿いの路上にあがった。ヨセが相手の歩調に合わせて歩いている内に、一人二人と追い抜く者が増え、やがて彼らは大勢の人波に巻き込まれた。最初は戸惑ったものの、がやがやと交わされる会話にヨセの合点がいく。
「叔父さんの先生の話を聞きに行く人達だよ」
 叔父から聞かされた、先生の話をヨセは思い出す。目の悪い者、足の悪い者、病気の者が癒され、人にとりついた悪霊が追い出された。偉大な預言者の再来とも呼ばれて。
「そんなの、まがいものさ」
 少年が鼻で笑う。
「でも本当なら。本当の預言者なら。君も」
 いかない? と、声を振り絞れば、相手の足が止まった。地へ顔を伏せる少年と当惑するヨセを、次から次へと人が分かれて通り過ぎていく。
 と、いきなり少年が手にした小魚の袋を突き出した。
「やる」
 目を瞬かせるヨセの胸元へ袋を押し込むや、少年は踵を返した。あっと思う間に人々の群に飲み込まれた背を、両腕に壷と袋を抱えては追うことも叶わず、代わりにヨセは懸命に叫んだ。
「学校が終わったらここに来るから! 昼にここで待っているから!」
 待っているから、きっと。

 春のうららかな日差しの下で、少年は立っていた。その姿を遠目で認めたヨセは、彼の名を知らないのに気づき、ただ、おーいと手を振った。
 少年が顔を上げる。近寄ったヨセは思わず息をのんだ。
 頬は赤黒く、右目の瞼が腫れ上がっている。
 どうしたの、と聞きかけた口をつぐんで、ヨセは黙って彼とともに歩き始めた。この先の草地で人々が集まり、叔父の先生の話を聞いているとのことだった。
「今日もらった粉をあの瓶にいれたよ。魚は壷にね。瓶の粉と君の魚で、お母さんがお弁当を作ってくれた」
 歩みの後先を舞う蝶を目で追いながら、肩の袋を示す。
「五つのパンと二匹の焼いた魚だよ」
 一緒に食べよう――


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