ハサミ

ムラサキハルカ

「ほら、お腹減ってるだろ」
 稲子が居間のテーブルに頬杖をついていると、和巳がそう言って一枚の皿を示した。稲子は、別に減ってないし、と思いながら視線を落とし、目を丸くする。容器の上には金属製とおぼしきハサミが一本置いてある。わけもわからず和巳の方を見ると、この彼氏は薄らと微笑み、
「さぁ、召し上がれ」
 などと満足げに言ってみせる。稲子は彼氏の振るまいに首を捻ったあと、あらためて皿の上に目を落とすが、やはり乗っかっているのはハサミだけだった。稲子が知っているものよりも刃が短かい気がしたが、それ以外のものには見えない。もしかしたら、こういう形をしているだけでちゃんと食べられるのかも。そんなことを思いつき手にとってみるが、伝わってくるのは金属の感触と重みだった。
「どうした、遠慮しないでいいんだよ」
 やはり何の疑問も抱いていないらしい彼氏は、優しくハサミをすすめてくる。やはり、和巳にとってはこれは食べるものらしい。もしかして、私が間違っているのかな。彼氏の自信満々の声音を耳にして稲子はそう思う。
 試しに刃の方をゆるくつかんでから、握りの部分にゆっくりと歯を立ててみた。しかし、ハサミの形をしたそれは硬く、とてもではないが噛みきれそうにない。念のため舐めてもみるが、鉄っぽい味がするだけだった。
 稲子は皿の上にハサミを丁寧に置き直したあと、不思議そうに瞬きをする和巳に「今はいいよ、別にお腹空いてないし」と言って断わりをいれる。彼氏は「そんなこと言わずにさ」と懲りずにすすめてくるが、当然、食べる気が起きない稲子は「実は思ってたより前の食事がお腹に残ってるみたいで」などと言い訳した。
 和巳は「そうか」と残念そうに告げ、静かにうつむく。彼氏の落胆する姿を見た稲子は、せっかくの好意を断わったことを悪いと思いつつも、ハサミなんて食べられるわけもないんだしあれ以外答えようがないよね、と開き直った。
 程なくして顔をあげた和巳は先程の落ちこみなどなかったかのように微笑んだあと「胃が重たいんだったら、ちょうどいい飲み物があるんだけど」と告げ、テーブルの向かい側を示す。今度こそいただこうかと目を向けてみると、透明なコップの中には銀色の液体が入っている。「なに、それ」と尋ねてみるものの、和巳は「食欲が湧くらしいよ」と言うばかりで、具体的な答えを口にしない。そうこうしているうちに、彼氏は稲子の手前までコップを持ってきて「さあ、どうぞ」とすすめてくる。
 先程の負い目から断わり辛かったのもあって、稲子はコップを受けとり自らの顔に近付ける。おそるおそる鼻をひくつかせてみるが、何の匂いもしない。それが逆に怪しい気がして、どうにも口をつける気になれなかった。そんな風に固まっている間、稲子は恋人の視線を感じ続ける。振り向けば先程と同じ笑みが待っているだろう。自然な表情に見えたそれが、今は酷く人工的なものに思えた。
 結局、稲子はコップをテーブルの上に置き直してから、席を立つ。どうしたの、という問いかけられそうな気配を感じて「少しお花を摘みに」と答え、逃げるように扉を開け、洗面所やトイレに続く廊下に出て、スイッチを押して灯りをつける。
 しかし、十秒もすればつくはずのトイレがいつまで経っても目の前にあらわれない。それどころか板張りの道は長く伸びていて、稲子のいる位置からは果てを目視することができなかった。今歩いている場所は、ほとんど見覚えがあるもののはずだが、なぜだか目的地は一向にあらわれない。狐に抓まれたような心地になりながらも、彼氏にお花を摘みに行くと言ったのだから、その通りに振る舞わなくてはと思い、歩を進めていく。
 次第に道は狭くなり、灯りがないところも少なくなくなり、足元が見辛くなっていった。おぼえている通りであればまっすぐに進むだけなので、迷うはずもなかったが、ここまで来てもなにもないということは最初からトイレの位置を勘違いしていたのではないのかという疑いが湧きあがる。ちらちらとした灯りに照らされ道の端に見える、掃除機や煙草の吸殻、割れた酒瓶や昆布などが、その気持ちをより強くしたが、居間に帰りたくなくて歩を進め続けた。
 そうしてどれくらいの時が経っただろうか。ふと、道端に、しわしわの提灯型の袋に包まれた赤い果実のようなものが落ちているのが目に入った。どぎつい色合いに気圧されるようにして、そそくさとその場から去ろうとしたところで、ぽんと肩を叩かれる。
「すごいな、こんなごちそうまで見つけるなんて」
 いつの間にか、和巳がすぐ後ろに立っていた。彼氏は「稲子は幸せものだな。一度ならず二度目もごちそうにありつける機会に恵まれるなんて」と微笑みながら屈みこみ、果実らしきものを両手で拾いあげる。彼氏の顔付きは居間にいた時とほぼ同じだったが、その変わらなさが逆に不気味に思えて、一歩下がる。
「さぁ、受けとってくれ。とってもおいしいから」
 無邪気に差しだされる果実のようなものは、先程まですすめられていたものと比べれば、まだ食べられそうな見た目をしていたが、稲子の中にあるなにかが、食べてはいけない、と囁く。包みの血液にも似た色合いのせいか、あるいは彼氏自身を信じ切れなかったゆえか。とにもかくにも稲子は一目散に走りだした。トイレがあると信じていたどこまでも続くとおぼしき道をただただひたすら進む。
 背後から足音が聞こえ、ちらりと見やれば、和巳がそれぞれの手に銀色の液体と赤い果実のようなものを持ち、口にハサミを咥えている。その背にはなぜか掃除機がおぶられていて、酷く走りにくそうなのにもかかわらず、稲子にも迫る勢いで近付いてきていた。途端に怖ろしさが増し、前だけを見つめ、足を動かす。とにかく逃げなくてはと思ったが、これといって当てがあるわけでもない。仮に行き止まりにトイレがあるとすれば、その中にこもるくらいしかなくなるが、捕まるよりはましな気がした。
 ふと、薄暗かった道の先に外へと続くとおぼしき光源が見える。あんなところに出口があった覚えはなかったが、今は悠長に考えている場合でもなく、息も絶えはじめていた。とにかく逃げられればいいと、走りに走っているうちに、体が光に包まれた。
 途端に足場が消失する。堕ちていると、認識したところで、なにかを掴もうと手を伸ばした。その最中、稲子の頭の中に、本当に手を伸ばすのが正解なのかな、という問いが浮かぶ。そんな疑問を抱えたまま、振りあげた掌でなにかを握りこもうとして、手ごたえを覚え、

「ほら、お腹減ってるだろ」
 そこで稲子ははっと我に返った。目の前では夫が不思議そうな顔をしながら、ラップのかかった皿をテーブルに置く。どうやら転寝をしたらしいと気付き安堵したところで、玄米のおにぎりが目に映る。幸い、最近戻ってきた食欲そのままに、お腹が鳴りそうになっている。
「ありがとう」
 夫に礼を言ってから、ラップをとる。そしておにぎりを手にすると、玄米はやや冷たい温度を伝えてきた。最近は夫が作ってくれたこのおにぎりが好物になりつつある。少しだけいい気分で、視線を落とす。自らの腹の膨らみを見て、もうこの体は一人のものではないのだとあらためて実感を深めた。今度こそ、上手くやるのだと。
 そして、あらためておにぎりと向きあったところで、ふとその中にハサミが入っているような気がした。それもこれもあの変な夢のせいだと思い出すと同時に、少しだけ食欲がなくなる。しかし、実際にお腹の方は空いているし、せっかく夫が作ってくれた新しい好物を台無しにするわけにもいかない。もしかしたら、鉄の味がするのではないのかという妄想にとらわれながら、口を開けておにぎりにかぶりつこうとする。その直前、もしも、夢の最後でなにかを掴めなかったらという想像をした。同じように赤い果実を食べることだったり、銀色の飲料を飲むことだったり、ハサミを食べることだったりを頭に浮かべ、重い体から解放された瞬間を思う。その最中におにぎりに口に入ったが、やはり鉄の味はしなかった。

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