振返休日

考えない人

 鈴野晴樺(すずのはるか)はカーペットの上に広げられた卒業アルバムを閉じると、前かがみの体を起こしてひとり目を瞑る。四年前の六月初旬、中学校最後の運動会、同じ色の応援団だった男の子が、棒倒しの最中に脛の骨を折って病院に運ばれたこと。それは午後の部の、応援合戦や棒引きが終わってからのことで、男たちの頑張りを横目に見ながら、競技を終えた熱っぽさのままにあれこれ喋っていた。ドラム缶を叩く音が右から左まで四つのチームに分かれて聞こえてくる。それぞれの色にちなんだ絵がプリントされた大きな旗を、二年生の応援団の男の子が八の字を描くように振っている。晴樺の属する緑チームのモチーフはワニだ。晴樺は副団長を務めていたが、他のチームにしても応援の主力は二年生みたいだったし、もう少しゆっくりしていてもいいかなと思うのだった。
 最初に気づいたのは友人で、晴樺の肩を叩いて「ねえ……あれ、なんかやばそうじゃない?」と声を震わせた。少しして晴樺も、辺りが凄然としているのに気がついた。グラウンド中央に目を凝らすと、ある地点を中心に裸足の男の子たちが塊になっている。競技の最中とは思えない。スピーカーから流れていたBGM(「Trust yourself」という古いアニソン)も、ドラム缶や応援団の元気な声も聞こえない。ざわざわという誰のものでもない不穏な呟きが耳にこだまする。グラウンドの向かいの一般席もただならぬ状態で、立ったり座ったりと落ち着かなげな様子や、白テントまで行って身振り手振りで教員に問いただす人の姿が見受けられる。晴樺は妙な胸騒ぎに導かれるがまま、前に飛び出していく。
 男の群れをかき分けていくのは大変だったが、それでも晴樺は中心部に辿り着くことができた。開けたその空間には、地面に横たわる大きな男の子の姿が。彼は身長一八〇センチ以上の体をエビのように丸くしていた。固く瞼を閉じて「ああ、ああ、」という声だけを轟かせている。体は大きいが繊細で、些細な思い違いから親友と仲違いしてしまったりする、クラスのムードメーカー的存在である彼が、瀕死の猛獣のような哀れな声を出してうずくまっている。出血はない。
 晴樺は自分が冷静でいることに驚いていた。人間の脚ってこんなゴムみたいに曲がるものなのか、という感想すら抱けたほどだ。彼女はただ、その男の子に顔を寄せて「大丈夫?」「どこが痛いの?」など、たいして意味もない言葉を掛けていた。体育教師が彼を仰向けの姿勢に変える。保健の先生が清潔なシーツを三枚、縦に四つ折りにして折れた脚の下に敷く。添え木を密着させるようにして立て、シーツで固定する。晴樺は自分が邪魔者であるのを感じていたが、男の子のそばを離れることもできず、聞こえているのかもわからない言葉を掛け続けた。
 救急車が到着したのは七、八分が経過してからだった。救急救命士が二人がかりで男の子を担架に乗せる。保健の先生が一緒に救急車に乗り込んだ。サイレンを鳴らして校門をあっという間に走り去る救急車を涙目で見送る晴樺の手には、男の子が頭に巻いていた緑色のハチマキが握られていた。汗で色が濃くなっており、結び目のところに折り目がついている。端のところには「3-D山岡繁(やまおかしげる)」の文字が、マジックペンで殴り書きされていた。
 現場は一時騒然となったものの、運動会自体は色別対抗リレーまで滞りなく進行した。今にして思えば、続行するその判断はすごいと晴樺は思う。今、そういう事故があったらその時点で中止になるんじゃないか? 晴樺は現在大学一年生だが、中学校の運動会ではもちろん棒倒しは行なわれておらず、他の危険な競技も篩にかけられ、競技自体が失くなったり、ルールが穏便なものに変更されたりした。騎馬戦も当時の面影を失っていた。以前は相手のハチマキを奪い取れば勝ちだったのが、今ではハチマキ関係なく、向こうの騎馬のバランスをちょっとでも崩せば勝ちのようだ。
 けれども当人からすれば疑問でもないらしい。現役中学生の弟に「なんか張り合いないなあ」とこぼすと、弟は首を傾げていた。「そう? 安全面に気を配るのはいいことだと思うけど。怪我をしてまで必死になる義務もないしね。中には頑張っている人もいるけど、俺みたいな運動音痴からすれば早く終わってほしいなって思うよ」

 運動会から二週間後、クラスの元応援団員と病院に見舞いに行った。仲のいい同級生や部活のメンバー、アニメなどの共通の趣味を持つ友人とは、これまでにもよく都会の方に遊びに行ったりしていたが、そうでなければ絶対に一緒になる機会がなかったであろう人たちと私服で集まるという経験は当時珍しいことだったので、晴樺は新鮮な思いだった。
 駅に集合した男の子たちは、学校で見るいつもの様子とは全く違っていた。特に驚いたのが仲井信介(なかいしんすけ)という男の子で、彼は地味で冴えないイメージとは裏腹に、革ジャンと英字のロゴシャツ、穴あきジーンズというパンクでロックな服装だ。しかし彼は胴長短足だったので、お世辞にも似合っているとは言えなかった。それに履き物が、学校でいつも使っている汚いスニーカーで、その辺りにもちぐはぐな印象を受ける。整髪料もてかてかになるくらい塗りたくっているし、これから自分たちがどこに向かおうとしているのかもわかっていないみたいだった。メンバーの中に彼の失態を率直に意見できる人間もいなかったので、最後までその格好にツッコミが入れられることはなかった。
 そんな彼を好いている、福本美矢(ふくもとみや)という女の子がいた。自分からそのことを言ったりはしないが、彼を見つめるその視線は明らかに恋する人間のそれだった。当時、どんな印象を彼に対して持ったのだろう。電車に揺られながら、ちょうど隣の席だったのでさりげなく話題を振ってみた。すると「あはは、でも信介くん、同じ部活の男の子たちと好きな音楽の話をしていたりするから、それで、かな?」と彼のことよく知ってますよアピールで返された。二人は幼稚園の頃からの顔見知りらしいので、想いの丈にも相当年季が入っているようだ。
 ロックでパンクなその男の子はしかし、晴樺のことを好いていた。病院で脚を吊るされていた男の子も、人伝てによれば同じく。晴樺自身、決して意識的に色気を振りかざしていたわけではない。小学六年生の時に告白されて以来、晴樺は中学三年生の時点で二人の男の子と付き合ってきた。当時は別のクラスの男の子と仲良くしていたはずだ。特に隠そうという意図はなかったが、おおっぴらにしようという趣味もなかったので、彼らがこの事実を知っていたかどうかはわからない。けれどもそれなら、どうして私本人に確認しようとしなかったのかなと純粋に疑問に思う。変にほのめかさず、直接質問しに来たり、「好きです」とはっきり言ってくれたりすれば、私だってきちんと答えてあげられたのに。
 今、彼らはどこで何をしているのだろう。共通の友人に訊いたりSNSでアドレスを辿ったりすれば自ずとわかる。だがそこまでせずとも、再来年の一月には成人式があるからその時に会えるだろうと軽い気持ちでいる。仲井くんは、また場違いな服装で来るのだろうか。山岡くんは、別の大きな怪我をやっていないだろうか。ミヤは、いい男の子に巡り合えただろうか。そんないくつもの期待が胸に広がっていく。
 アルバムを棚に戻し、晴樺はリビングまで下りていく。母親と当時の思い出について語ろうと思ったからだ。着物のことも、相談すべき時期かもしれない。

 今日は十一月五日、月曜日。大学生に「振替休日」なんてものはない。でも自主的に休みを取ることはある、「振返休日」なんてかこつけたりして。よもや動物の尾がだらしなく垂れ下がっているのではないかと不安になったが、後ろに手を当てても小ぶりな脂肪の塊が二つあるだけで、尻尾など生えていやしなかった。――もしくはプリーツスカートの下に、巧いこと隠れていた。

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