はいおめ

考えない人

「大丈夫。私が君のこと守ってあげるから」
「嘘だ」
 パイプベッドに腰かけた年下の男の子がついに口を開く。血走った目はしかし、正面で中腰になった女に向けられることなく、フローリングの床をあてもなく彷徨う。
「嘘? 私は嘘は言わないよ。現に今だって」
「嘘つきめ。俺のことなどこれっぽっちも心配していないくせに」
 反抗的な態度を取られたことは今までにもあったが、これほど真っ向から嫌悪感をぶつけられたのは初めてだった。女は悲しみよりも怒りの方が強く込み上げてくる。
「どういうこと? 嘘ついてないって言ってるよね? はっきり言って、私は君の将来がすごく心配。きちんと中学校に行けているのか、卒業できるのか。事情を全部把握しているわけじゃないけど、このまま一人にしておいたら絶対に駄目になるってわかっているから、せめて今日みたいな特別な日くらいは顔を見せに来ようって努力してるんじゃん。君を心配するこの気持ちに、嘘偽りなんてない。じゃなきゃどうして私は今、君の部屋にいるわけ?」
「いるだけじゃないか。結局俺の本当の思いに何の手出しもできないまま、すごすごと帰っていくんだからな。それなのにお前は、自分という存在には価値があると確信している。お前が俺に会いに来れば、必ずや良い変化をもたらすことができると信じてやまないのだ。俺はそんなお前の傲慢さに苛立っている。そしてお前は、自分のそんな傲慢さにいつまでも気づかない振りをしている。だから俺は、お前を嘘つき呼ばわりしたのだ」
「君の言っていることはよくわかんないし、自分のことを棚に上げてその態度はないと思う。それって結局、君自身に降りかかってくる問題じゃん? 自分から変わらなくちゃいけないってことは君だって理解しているはずなのに、周りに迷惑をかけるだけで現状を変えようともしないその甘い態度こそ、私は問題だと思うな。己の無力さを盾にして、俺は何も悪くないっていうその卑屈さがそもそもの原因なんだよ。それがわからないの? そんなに私が気に食わないなら、自分から何かしなよ。それができないから、私に対して屁理屈しか言えないんじゃないの?」
「黙れ。正しすぎる言葉はもう聞きたくない。俺自身に問題があることを、この俺がわかっていないとでも思っているのか? 本気でそう思ってんなら相当おめでたい人間だよな。まあそうだよな。高校、大学と順風満帆な生活を送ってきて、私生活も充実しているお前には、俺の抱えている真の問題に辿り着けるはずがない。私は幸福、君だって幸福になれるはず。大方そういう考えなんだろう。でもな、お前のその幸せの形は、残念ながら俺の幸せの形じゃないんだ。それがお前が根本的に勘違いしているところだ。お前は自分の考えを疑ってみたことなど一度もないだろう。なぜならその考えは、世間から既に信用を受けたお墨付きのものばかりだからな。俺は世間に流布する一般通念が間違っていることを知っている。そうした考えを何の根拠もなしに受け入れることなどできやしない。自分から動こうとする積極的な姿勢が足りないことは自覚しているよ。だがな、それでもどうしようもないことだって、あるのだよ……こんなことをいくらわめき立ててみたところで、お前には通じるはずもないけどな」
「うん。わからないよ。だからこうやって、せめて少しでもわかろうっていう努力を続けてるんじゃん! 私が誰かと話していて一番楽しいって思えるのは、その人のことを少しでも理解できた瞬間に出会えるとき。どれだけ自分とかけ離れた人間であっても、お互い誠実に話せば絶対どこかでわかり合うことができるし、現にそうやって私は苦難を乗り越えてきた。もちろん最初はきつかったよ。君も知っているでしょ? 私がアニメとかゲーム好きだってこと。今でもこの趣味を大切にしているけど、誰に対してもこの話ができるわけじゃないってことを、私は中学生時代に学んだ。時には自分を押し殺す必要があるんだってことを知った。でも、そうすることで私は新たな自分に出会うことができた。世の中には多くの生き方があって、自分を何か一つだけのことに限る必要はないんだってわかるとすごく楽になった。私自身そうやって生きてきたから、君にも同じアドバイスしかできない。そういう生き方しか知らないわけだからね。君が体育会系のノリが嫌いだってことは承知してる。でもね……せめて、君のことを心配する私の気持ちくらいは、きちんと受け止めてほしいな」
「ほら! そういうところにあるのだ、お前のようなお節介焼きには。お前は自分の生き方を誇りに思っている。それは誰にも否定できない類いのものだ、なぜならお前は、現にそうやって生きてきたわけだからな。俺が小学生時代、お前の家でゲームをやらせてもらったことは憶えているよ。あの頃は楽しかった。だがそのことと現在俺の抱えている問題は、性質が全く似て非なるものだ。多様な生き方といった観念とは別のところにある、根本的に世界と馴染めない、とでも言うべき大問題だ。こっちの考えていることが相手にほとんど伝わらないというコミュニケーション次元での問題を、お前は持ったことがあるか? ないだろうな、お前の場合、話していることが相手に過不足なく通じるということが最初から保証されているからな。俺に関してはそうじゃない。ものの考え方の土台が、そもそも世間とは乖離しているらしいのだ。それだけであればまだいい。一番耐えられないのは、そのことで世間から『頭の悪い子』とか『おかしな考えの持ち主』とかいうレッテルを一方的に貼られることだ。本当は世間の方が間違っているかもしれないのに。それが嫌で嫌でたまらず、こうして自室に塞ぎ込むしかなかったってわけだ」
「でもそうやって引き籠ってばかりいたら、自分はどうなると思う? 一生受け入れられることもないまま、孤独に生きていくしかないんだよ? 私のこと嫌いなはずなのに、こうやって会話ができているのは、君が今もこの世界に対して、希望を捨てていないってことの何よりの証拠なんじゃないの? 正直言って、私は君の全てを受け入れる気にはなれない。私だって十九年ていう短い期間ではあるけれど、きちんと自分の時間を生きてきた。今さら自分の生き方を否定することはできない。でも、私たちはこうやってお互い正直に話せている。それだけでも充分幸せなことだって思う。世界にはもっと悲惨な境遇に置かれている人たちが少なからずいる。それに比べたら、君の抱えている問題なんてちっぽけなものだって思わない?」
「……お前のその言葉、俺は一生忘れないからな。お前は今、俺の抱えている問題をちっぽけだと言ったな? 何が問題とされているのか、よくわかっていないはずなのにだ。どうしてお前が、そんな強気な発言ができるのだと思う? わからないだろうな。俺にはわかる。だがもう言わない。お前にはもう、何を言ったところで無駄だってことが、ここにきてはっきりしたからな」
「何それ? 一人で納得しないでよ。話はまだ終わっていないのに」
「もういい。何も喋るな。俺ももう黙る」
 年下の男の子は本当に黙り込んでしまった。女は苛立ちをため息で示すと、ドアを勢いよく開けて部屋を出ていく。
 ドアを閉め切った後でしかし、女は涙を抑えきれなかった。それは議論を一方的に打ち切られたことによる悔しさからではなく、今年もついに彼を救い出せなかったことによる後悔の念からだった。私が何かおかしなことでも言ったのか? 自分は間違っていなかったはず。であればどうして? いつもの堂々巡りが女を困惑させる。
 最終的な答えはいつも同じだった。再びドアを開けると、先ほどと同じ姿勢で俯く少年にまっすぐ近づき、彼の両肩をむんずと掴む。顔を上げたその隙を見逃さずに唇を押し付ける。そのままベッドに押し倒して、相手の耳介や首筋に触れていく。
「何か言い忘れていることがあるのじゃないか」
「何も」
「許さない。俺の心はたった今、滅茶苦茶に傷ついた」
「別にいいでしょ。もうめんどくさい」
 それでも彼はむすっとした表情のままだ。女は諦めたように首を振る。
「はいはいなんかいろいろおめでと。略してはいおめ」
「誕生日おめでとうとなぜ素直に言えないのか」
 女は結局午後四時まで男の子の部屋にとどまった。昼は「ほっかほっか亭」で買ってきた弁当で済ませた。彼のはエビフライ弁当だった。相当お腹が空いていたようで、海老の尾まで綺麗に平らげた。朝食を抜いていたらしい。

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