初夏(はつなつ)の天

朝森雉乃

 きみのポニーテールを、可愛いと伝えたことなんて一度もない。それなのにきみは、まとめあげた髪を得意げに揺らしながら、ぼくのことを流し見てニッと笑う。なにを言うわけでもなく笑うだけだから、ぼくだってなにも言い返せやしない。
 梅雨明けの陽射しが雲間からあふれて、バス停で待ちぼうけを食らうきみとぼくに当たる。ついさっきまで雨が降っていたような水の匂いがするのは、舗装の荒れた道に残っている水たまりのせいかもしれない。まだセミも鳴き出していない季節、葉ずれの音もしないほど凪いでいる午前中、つまり、きみとぼくは、道端でふたりっきりだった。
 たぶん学校には行かなくていいという感じがして、きみとぼくはわざとバスに乗らなかった。だからこうやってバス停にいるような気がした。本当の本当は、バスなんて一本も通らない、廃道の脇に放置された錆びだらけのバス停で、きみがなにかを待っているのを見つけて、ぼくがそのとなりに並んだ、という、それだけのことなのだけれど。
 きみがぼくのことをよく知っているのは、態度ですぐにわかった。ぼくもたしかにきみのポニーテールについて覚えていたし、なんなら、髪を結いあげる姿に恋をしたということだってよく覚えているのだから、ぼくがきみの名前を思い出せないのは、ささいな問題なんだと思う。
 金魚鉢の中のビー玉と浮草みたいに、お互いの距離を近づけも遠ざけもしないのが心地よくて、水を通したようにうす青く感じられる光を浴びながら、じっとなにも話さないでいた。
 前ぶれなく現れたのは当然のように路線バスではなくて、すじ雲で結わえたかげろうのような乗り物だった。タイヤは見当たらなくて、宙に浮いているような気もするけれど、なんとなくゆらゆらとはっきりしない。きみが跳ねるように乗りこむと、合わせてポニーテールが楽しそうに揺れる。そのあいまにも、やっぱりきみがぼくのことを流し見る。あとに続いて足をかけたステップからは、スニーカー越しでも、苔むした川床の石みたいにくすぐったい感触が伝わってくる。
 乗り物がひとりでに動き出した。床や壁をとおして見える景色はわずかにゆがんでいる。バスなんかより揺れがない。窓らしいものはないのに、どこからか空気が流れこんで、きみのうなじの柔らかな髪をゆわゆわとなびかせる。ぼくが見つめているのにきみが気づいて、さっぱりとしたシャツの衿をわざとうしろへ少しだけずらす。
「きょうはどこへ行こうか」
 いまさらきみが言ってきた。行きたいところは特になかったけれど、きみに似合う場所はいくつも思いつく。遠くに灯台の見える丘の上の公園、ガラス風鈴の連なった路地、あるいは、砂金や翡翠の採れる川べり。でも、きっと正解というものはなくて、きみはどこに行っても澄んだ表情で楽しむだろう。だったら、なにもいますぐに決める必要はなかった。
 かげろうに運ばれていると、周囲の景色は万華鏡のように目まぐるしく変わっていく。黄緑色の葉をつけた若木をかきわけて進んでいたり、真っ白に泡立つ川の上をさかのぼったりと、進むのにもう道は関係ないようだった。そんな中で、きみとぼくはともに口をつぐんで、ただひとつ、いつでも景色にある太陽が隠れたり照りつけたりするさまを楽しんだ。日陰に入れば薄鼠色の香りを吸いこんで、日向に出れば同時にひたいの上に手首をかざす。そうしてお互いに横顔を盗み見ながら、まるでいたずらをしているみたいに声を出さずに笑った。
「さっきの話だけど」
 ぼくはようやく思い当たった行き場所を伝えた。
「ホタルを観に行こう。水色のホタル」
「いいよ」
 すぐにそう応えると、きみはおもむろに片腕を上げた。そして、太陽を引っ張って落とそうとするみたいに、勢いをつけて振り下ろした。
「もっとスピードを上げて!」
 号令とともに、かげろうは前へ飛び出した。
 その勢いにぼくは足をとられた。頭を強く打ってしまうと慌てたのもつかのま、ぼくの体は、とぷん、とかげろうのなかに潜っていった。重力も浮力も感じない、息もできない、ただ周囲の景色がすべてぼやけながら、突風のように吹き飛んでいく。少しずつ、体がかげろうととけ合って、きみの背中も遠くなる。いやだ、と叫ぶと、代わりに大きな気泡がぽこっと現れた。
 それでも、きみは振り向いてくれた。後ろに伸ばした左手で、ぼくの伸ばした右手を、なんの造作もなくつかむ。上下も前後もあやふやな中、真珠のようになめらかな手のひらが、錨となってぼくを係留してくれた。
 引き揚げが済むと、きみはすぐに前方の空を指さした。
「ほら、そろそろ」
 白みがかった青空の縁に、茜色を境目にして、紺色の夜が見えはじめていた。境目は、まるで水彩絵の具をにじませるみたいに、空をみるみる塗り替えていく。ちょうど、昼と夜の空が半分ずつになったあたりで、太陽が境目に追い越されて月に変わった。
 それから夜になるのはすぐだった。かげろうもスピードを落としている。きみとぼくは足を踏みかえながら、かげろうがほぐれて消えてしまう時に備えた。足元の感覚がふいになくなって、次の瞬間には、きみとぼくはしずかな夜の真ん中にいた。
 月明かりも星明かりも知っている以上に明るい。特に星々は、それぞれの色がはっきりとわかるくらいに明るい。だから、きみのことだって輪郭くらいはよく見えた。相変わらずポニーテールを揺らしている。きっとぼくの輪郭を流し見て、笑っているんだろう。
「行こうか」
「うん」
 踏み出した地面に道はない。ざらざらとした草が、裾のすき間から入りこんでくる。それでもうっとうしくなかったのは、たちのぼる草いきれの名残が、星明かり混じりの夜陰とあいまって、香りよくなっていたからかもしれない。きみとぼくで草を踏めば踏むほど、ライチの皮をむいた一瞬のような芳香が広がっていく。
 ふいに、足元から白っぽい光が飛び立った。
 よく見ればその光は、星をそのまま地面まで持ってきたみたいに、ちらちらとまたたいている。だいたいが銀色で、たまにほんのりと色彩をともなって、黄色や橙色に見える。
 でも、ひとかけらも水色の星はなかった。
 ぼくはやっきになって、足下の草を蹴飛ばした。途端にぼくのところから光が消え失せて、きみのほうへとたゆたっていく。
 きみはぼくのことを咎めるでもなく、集まった光たちにそっと手を差しだした。
「あっちのみーずもあーまいぞー。こっちのみーずは、もぉっとあーまいぞー」
 ふざけて口ずさむ替え歌も、せせらぎで麻布をさらすように歌われると、とても心地よかった。きっとホタルたちもそうなのだろう。すぐに、シルエットが浮かび上がるくらい、きみの周りに光が舞った。
 そのうちに、ぽつり、ぽつりと、水色の光が見え始めた。きみの手のひらに触れたホタルが、まるで赤面をするみたいに、色を変えて飛び立っていくのだった。そうなることがわかっていたかのように、きみはぼくのことを手招いた。
 ふたりで並んで観る水色ホタルの群れが、徐々に星空へ帰りはじめる。
「ほら、そろそろ」
 うながされて、ぼくはきみの手を取った。なめらかな柔らかさ。ひんやりとした感触。
 とたんに、あたり一面の光がいっせいに色を変えた。音もなく湧きあがった数多の水色が、きみとぼくのことまで巻きこんで飛んでいく。息ができなくなるくらいのかがやきは、かげろうに呑まれた時より断然さわやかだった。光の一粒一粒が空を埋め尽くしていって、夜空だった初夏の天は、もとの青空へと戻っていく。
 僕の手に握られていたのは、空になったラムネの瓶。
 梅雨明けの陽射しが雲間からあふれて、バス停で待ちぼうけを食らうぼくに当たる。ついさっきまでホタルが飛んでいたような水の香りがするのは、きみが見せてくれた白昼夢のおかげかもしれない。たぶん学校には行かなくていいという気がして、ぼくはわざとバスに乗らなかった。
 だから、ぼくがきみの名前をいまさら思い出せたのだって、ささいな問題なんだと思う。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。