Rabo de toro

ぱっさろーら

 特に予定もない日だったので、スマートフォンのアラームで目を覚ましたのは午前8時だった。ミネラルウォーターを一口含んだ後、バスルームへ行き用を足し、顔を洗って歯を磨く。部屋にはシングルサイズのベッドが2台備え付けられているが、予約の段階で個室を希望しているので部屋には私ひとりだ。テレビをつけて昨晩見ていたサッカー専門チャンネルからニュース番組へと切り替えると、ちょうど気象予報士の男がスペイン全土の天気を順番に読み上げているところだった。アンダルシア地方は昨日に引き続き、全域で夕立が発生するらしい。

 フロントに座るブロンドの若い女性と軽く挨拶を交わして、近場のカフェで朝食をとるためにホテルを後にする。5月中旬のこの辺りの気候は日本とさほど変わらず、朝方はTシャツに薄手の上着を一枚羽織るくらいが丁度いい。ヨーロッパが本格的なバカンスシーズンに入るのはまだ先で、この町を訪れている観光客はそれほど多くない。通勤ラッシュなどという言葉とは無縁な山間の小さな町の朝、出歩く人の姿はほとんど見られない。
 カフェへ入るなりカウンターへと向かい、私の使える数少ないスペイン語でカフェオレとクロワッサンを注文する。小さな町といえど観光地、英語が通じないとは考えづらいが、東洋人の使う怪しげなスペイン語に愛想笑いを浮かべながら対応してくれるのが嬉しくて、できる限りスペイン語を使うことにしている。スペインに滞在してはや10日、いまだにドリップコーヒーにありつくことができずにいるが、エスプレッソにミルクを入れて飲むのがスタンダードなこの国の朝の一杯に愛着を感じるようになってきた。今日のお店はコーヒーがグラスに入って出てきた。モロッコで飲んだミントティー然り、グラスが熱くて飲むのに一苦労する。

 この町への滞在は今日で4日目になる。当初は2泊の予定だったが、断崖絶壁の上に立つ、この町から望む景色に心を奪われ、後から2日間、この町への滞在を延長することに決めた。小さな町であるため、ホテルで貰った観光客向けの地図に載っている通りは、昨日までの間に全て踏破してしまった気がする。それでも、この町のどちらかといえば地味な街並みと、町の周囲に広がる丘陵の眺めは、いつまででも見ていたくなる不思議な魅力がある。
 何度目なのか分からなくなってしまっているが、お気に入りの散歩道を行く。新市街、スペイン広場からヌエボ橋を渡り、旧市街の入り口から左手に折れて坂を下っていく。つづら折りの坂を進み、フェリペ5世のアーチを潜ると、ビエホ橋の向こう側に石灰で白く塗られた家々が立ち並ぶのが見える。ビエホ橋を渡らず、さらに坂を下っていくと、イスラム文化の匂いが残るアラブ浴場が見えてくる。ここまで降りてくるといつの間にか旧市街を守る城壁の外側まで出てきたことになる。急斜面を覆う枯草と点在するオリーブの木、聳え立つ黄色がかった石の壁を見上げていると、レコンキスタ、さらにはローマの時代の兵どもに想いを馳せずにはいられない。いや、それは少し高尚な言い回しがすぎる。幼少の頃、テレビゲームやアニメ鑑賞に明け暮れた私にしてみれば、ここはファンタジーでRPGな世界であり、ZABADAKの牧歌的な調べやらドラゴンクエストの壮大な行進曲を頭に浮かべながら、細く曲がりくねった石畳の道を内心ウキウキとさせて進まずにはいられないのだ。

 正午少し前、旧市街を当てもなくぶらついた後、毎日休息をとる広場へと向かい、崖下のなだらかな丘陵を望むベンチへと腰掛ける。5月とはいえ強く照り付ける日差しから逃れようと、名前の分からない街路樹の木陰にはいり、ショルダーバッグから文庫本を取り出して読み始める。
 読書をはじめて20分ほどすると、背後からクラシックギターの音色が聞こえてきた。サンバーストの軽快な調べは、ゆったりとした時の流れる広場に染みわたってゆく。柔らかな木漏れ日を浴びながら心地よい音色に耳を傾けるこの瞬間は、旅の途上という非日常において得難い、日常的な喜びを与えてくれる。素晴らしい調べに乗せられたのか、蜜蜂が踊るようにして私の近くを飛び回る。
 腰を上げ、素晴らしい演奏を披露してくれる人の方へと歩を進める。演奏していたのは白髪交じりの長髪の老人で、ギターを弾いていなければ居眠りしているのかと思うほどに、背中を丸めて演奏している。老人の前にはギターケースが開かれていて、中には何種類かの硬貨がまばらに広がっている。私も1ユーロ硬貨を取り出してギターケースに投げ入れると、老人はちらとこちらを見て、すぐに目元を弦を弾く右手の方へと戻した。
 曲が終わりに近づく頃には僕以外にも観光客らしき人々が、ギターの音色に誘われて老人の周囲に集まっていた。スマートフォンを取り出して老人の姿をカメラに収める人もいる。演奏を終えると老人は監修のまばらな拍手を受けながら丸めていた背を延ばし、チップに感謝してなのか、欠けた歯を見せながらこちらに顔を向けてほほ笑えんだ。ギターをベンチの上に寝かせ、足元に置いたミネラルウォーターを手に取って口をつける。演奏は一先ず終わりかと、昼食をとるため広場を後にしようとしたそのとき、不思議なことにギターの音がどこからか再び聞こえだした。僕が怪訝に思っていると、老人はボトルのキャップを閉めて再び足元に置くと、ギターケースの蓋を少し持ち上げた。そこにはラジカセが置かれていて老人がギターをベンチの上に寝かせているこの間にも、アルハンブラの想い出の哀愁を誘う音色が聴こえてくる。出来すぎなほどに正確なトレモロは、老人のボタン操作によってピタリと止まった。蜜蜂はなおも踊るように広場を飛び回っている。僕は今さっきチップを入れたばかりの観光客との間で、お互い苦笑した顔を交わすと、昼食をとるため広場を後にした。
 バーガーキングでの昼食を終えて外に出ると、吸い込まれるような青い空に、綿菓子みたいに立派な入道雲が浮かんでいるのが目に入った。今日は早めにカフェでのティータイムを切り上げて、シエスタを存分に満喫することとしよう。

 午後8時30分、夕立が落ち着いたのを確認して、いつもの展望台へと繰り出す。崖下に広がる濃淡入り混じった緑の丘陵には、白い霧が発ち込めていて、そこに雲のたなびく青白い空から黒い山々の向こう側へと沈み始める夕日が発する、オレンジ色のまばゆい光が差し込む。ヌエボ橋の下に広がる渓谷では、名前を知らない鳥の群れが、甲高い鳴き声を上げながら飛び回っている。
 私はこの景色をぼんやりと眺めながら、自分の今の気持ちを形にして留めて置こうと、ショルダーバッグからメモ帳を取り出す。しかし、頭の中に浮かぶのは「寂しい」とか「悲しい」といった表現力に乏しい単語ばかりで、自分の気持ち一つまとめることができないのかと、輪にかけて寂しくて悲しい気持ちになってしまう。
 こんなことではいけないと気持ちを切り替え、今回の旅を通して賢くなったこと、今後の課題を列挙することにした。まず課題その1、植物や鳥類について造詣を深めること、文学作品に対する理解力向上に加え、旅の思い出をより鮮明に残せるようになる。その2、google翻訳にも限界はある、最低限の英会話スキルを身に付けて海外旅行に臨まないと、フロントの綺麗な女性との楽しいお話すら満足にできない。その3ーー。
 次に賢くなったこと。その1、夕立前後のあの匂いはどうやら万国共通である。その2、スペインの路上ミュージシャンは狡猾で商魂たくましい。その3、旅とは新たな発見を通して、おのれの奥深くにしまいこんだものの意味を知るための手段である――。
 
 夕食は久しぶりにご当地のものを食べようと奮発し、赤ワインにガスパッチョ、メインはオックステールの煮込みにした。テール肉はシチューの味がよく染み渡っておりとても美味だった。慣れないフォークとナイフで、尻骨から肉をそぎ落とすのには苦労したが。
 今夜は赤ワインを少々飲みすぎたかもしれない。明日の起床は午前6時、朝一番のグラナダ行き列車に乗り遅れないよう、忘れないうちにスマートフォンのタイマーの時刻を再設定しておく。今日はネガティブなことばかりをメモしてしまった。アルコールの力を借りて楽しい夢が見られるとよいのだが。

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