もう走らない

松川宏伸

 30分12秒。一生に一度、あるかないかのベストコンディションであると意気込んだ10000m走記録会での成績だ。自己ベストは2分近縮めたが30分を切れないということは、世界は無理だ。誰にも言っていないしたった今、この現実を目の当たりにしてはっきり決めた。競技を辞める。
 小学校の頃から長い距離を走るのが得意だった。少なくとも、校内では敵無し。中学にあがっても、運動強豪部の走り込んでいる奴らやスポーツエリートより長距離だけは速かった。
 中学くらいまでは専門で長距離をやるライバルが多くはない。ただ、誰でも、とりあえず走れると判断された奴は誰でも走らされる。そこでは、ほかのメジャースポーツでうまい奴も含まれる。中学まで野球やサッカーをやっていても、高校で、甲子園や国立行こうと目指すようなのが真のスポーツエリート。多分、走っても、ほかの競技でもうまかっただろう。人より運動神経があるとかその手の才能がありそうな人の八割は野球かサッカーをやっていて、その世界に残ったのは、それだけですごい。走るのが速かったけど……というのが流れ込んでくる。
 それでも自信があった。だから高校でも長距離を続けて大学に入っても競技者として走ってきた。だが、学生でも一番になれない。コレでは国内、ましてや世界で、競技者としてはやっていけない。どこかわかっていたが、諦めきれなかった。競技者として見切りをつけるには早い気がしていたし、はじめから走ることだけに集中していたし、走ることの才能があったと思っていた。
 10000m30分12秒。学生で出せれば十分立派なタイムだと思う。それでも、自分自身納得行かない。今日の、競技場も気候も走る面子も自分自身のコンディションも最高で、緻密な計画を立てた。競技会ではなく記録会であるから順位よりも記録にこだわる為の戦略で、その通りにレースも展開したその上でのコレは、やはりダメなのだ。
「道弘、おい、道弘ってば」
 遙か後方で呼ぶ声がした。振り向くとチームメイトが遠くから必死に向かってきている。
「悪い、ちょっと考え事していた」
 追いついてきた仲間にそう言った。昔から周りのことを忘れてしまうと、一緒に歩いていたはずの連中を必ず置いていってしまう。反省もしたし、しゃべっていればペースは合わせられる。ただ、いつも思う。遅いと。
「道弘」
 ミーティング後コーチに呼ばれた。競技を辞めることを悶々と考えていた時だったので、ちょっと驚いた。
「何ですかコーチ」
 動揺を隠すように何事もない風を装った。が、なんだか取り留めのない、内容の無い話をされてしまった。話が終わった頃には、みんな近くで安価な共有浴場に出払った後だった。
「ほら、早く行け」
 あんたのせいだろ。なにがしたかったんだか。ムカついたがそれを表にでないようにして、なるべく早くその場を離れた。離れるとき、なぜかコーチの視線を背中にやたら感じた。さらにムカついたので、走りたかったけどそこは我慢し、なるべく早く歩き去った。
「道弘」
「何ですかコーチ」
 昨日のことがあったので、目も合わせずにかなりつっけんどんに返事をした。我ながら態度が悪いが、昨日のコーチの方が悪いと自己肯定した。
「おまえ、競歩をやらないか」
 意表を突く言葉が続いた。昨日のコーチはそんなことおくびにも出さしていなかった。昨日だけではない。今まで一度だって。一晩明けてなにがあったのかといぶかしんでしまった。意外すぎたのだ。
「何ですかコーチ」
 混乱しすぎたのか言葉の意味が整理できなかったのか、全く同じ事を口にしてしまった。
 ずっと観ていて、ずっと考えていた。そしてそれを昨日確認して、確信した。レースだけではなく、むしろレース以外での、普段の生活で。音もなく、澱みなく、その上で素早く流れるように颯爽と暗がりに消えた。美しいフォームで、その場から歩き去ったあの姿。
 正直、ここまで誉められるとは思わなかったし、そんなところまで観られていたかと思うと気持ち悪い。
「絶対おまえ競歩向いている」
 熱弁のあと自分の考えに納得しまくりという感じで、ひたすら頷きまくっている。
「いや、コーチ。オレは」
 競技から引退したようとしています。と、口にしかけて言いよどんだ。
 競歩。実は考えたことがなかった。陸上競技は、特に道具を使わないものは「誰しも通る道」であろう。走る競技についてはとにかく何であろうと速くゴールする。それだけのものだ。決まっているのはコースくらいか。走れると判断されれば、苦手だろうが辛かろうが、遅かろうが速かろうが、有無をいわさず走らされた。競技として。そして、おそらく走る余地も潜在的な競技人口は多いであろう歩く事については、競わされることがほぼ無い。走る以上に多くの人がするはずなのに。ただ、何であろうと速い奴ではなく、遊興、楽しみのためではない、単純に拘束する、制限の為のルールが存在するのは、確かにすごさがわかりにくし、競技としてはやりにくいのも事実だ。考え込んでしまった。
「俺はな、道弘」
 コーチはちょっと迷いながら言葉を紡いだ。
 走ることに才能が必要なのも事実だが、それとは別の才能が、歩くことにもあると信じている。そして、それを持ちたる人は、速く走る以上に少ないように思える。当たり前の行為すぎる。だからこそ、そこに才能がある奴を見いだしにくいが、それでも光る奴はいる。それがおまえだ。
 才能を見いだしてくれるのはうれしいが、しかし、それはどうなんだろう。
「そうか?」
 コーチは心でも読んでいたのか。違う。それだけ顔に出てしまっていたのだろう。
 その人に合った競技。競技に限らず、自分の才能を発揮できるものに出会える確率なんて、きっとそれほど高くない。野球だってサッカーだって、例えプロで活躍している人であっても、いや、プロだからこそ、それよりも合った競技があったかもしれない。多くの人がする行為で、それで才能がとてつもなく光って見える道弘は、間違いなく歩きの才能があって発揮できる。そして、その競技が競技として存在しているのだ。それは凄いことだ。
 余りに熱っぽく語るので、かなり引く。そこにも気付かれたのか、コーチは笑った。笑った中でもその目の奥には真剣なものが煌めいている。そして、道弘自身の中にも燃える何かが沸き上がってきた。
「そうですね、やってみますか」
 口に出して、とたんに実感が出た。
 思い返せば歩くことは得意であることに、改めて気が付かされた。
「ただな」
 おまえ、考えすぎで失敗してないか。とも言われてしまった。今回の記録会、準備計画しすぎて走っている最中も考えすぎでそっちに労力使いすぎて自滅している。もう一度だけ、なにも考えずに10000mを走るのも良いかもと。
 今までを否定されたのかと、また顔に出たらしかった。
 そこまで準備と計画、戦略を練って、競技中も考えてる奴だからこそ、今更考えなくても自然にできる。身についているから、競技中は考える意識をしない方がいいという意味だと。
 競歩に興味が沸いた。それと同時に、最後にもう一度、締めくくりとして走るのも良いかもしれない。
 道弘の思考が駆けめぐった。それとも、走り抜けたのではなく、疾歩したのかもしれなかった。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。