あだ花

和七

 台所の煙出しからは白い湯気と共に、昼餉の御御御付のにおいが立ち昇っている。時折吹く木枯らしは鰯雲を拐かし、秋うららをどこかへ連れ去ろうとしている。そんな変わらぬ日ごとの営みと、季節の移ろいを肌に感じながら、糸吉は欄干から中庭で膨らんだ緋色の蕾を眺めていた。
「寒牡丹でありんすか?」
「冬牡丹かもしれんせんね」
「同しではありんせんか」
 引込新造の葵が首を傾げた。
「時季が来れば冬にも自然と花を咲かすのが寒牡丹、莚の露払いで嘘の春を拵えて、冬に花をつけさすのが冬牡丹」
 見分け方は葉の有る無し。春と惑わされている冬牡丹には、青々と葉が茂る。したが、そこから葉までは窺えない。
「欺かれてるみたいで可哀そう。冬牡丹だって、本当はあたたかい春に花を咲かせたいはずでありんしょう」
「たといそうだとしても、懸命に咲く花の愛くるしさに違いはありんせん」
「姉さんはきっと寒牡丹。自分が咲くのは冬と心得て、寒くなるのを待ち焦がれているよう。でもあちきは――」葵は糸吉を寒牡丹に、自身を冬牡丹に重ね見ている。憐れんでいるのは花ではなく、その我が身。「褥で花咲くあちきらは、いったいどんな花を咲かすでありんしょう……」
 その刻、戸の向こうから訪いの声が届いた。
「こちらに葵さんがいらっしゃるかと存じやすが」
 唐紙を引き、ずいと膝を進めて入ってきたのは、先ごろ不寝番から見世番に上がったばかりの善市だった。
「葵さんお目当てで?」
 その声音にはいたずらな険が忍んでいた。迂闊な善市はそれに気づけないでいる。
「へい、楼主から葵さんを呼んで来いとのいい付けで」
「へい、だって……、わっちには用なしと仰えす」善市はそこでやっと自分のへまに気付いた。何よりもまず糸吉のご機嫌を伺うのが先だったのだ。「近頃の葵さんはお乳もふくふくと膨らんで、腰の辺りなんかまあるく熟れてきて、それはそれは艶めいてきたでありんすからねぇ。わっちみたようなとうの立った年増は荷厄介でありんしょうとも」
「そんなにいじめねえでくだせぇ」
 糸吉は善市の困り顔を見てあっさり溜飲を下げた。
「でも本当、善市さんにも見せてあげたいくらい。遣手のフキ姉さんだって、そろそろ葵さんの水揚げを考えないといけないねえ、なんて仰えしてるほどに――」
「姉さん!」葵が糸吉の言葉を遮った。「急いで戻らないとあちきまで叱られるでありんすから」
「あらあら、それは大変。もしかしたら本当に突き出しが決まったのかもしれんせんね。ささ、急いで往きなんし」
 葵は挨拶もせず、糸吉の部屋からけんどんに飛び出した。

 それから幾日か経った雨上がりのある朝、楼主の五十丸が亡骸となって見つかった。
 遊女が客と閨事を済ませて寝静まったその後、不心得者に首を絞められたようだった。
 糸吉が怪しい……。すぐにそんな声が聞こえだした。
 曰く、先達て申し出があった神保町の助左衛門からの縁談を、五十丸の一存でご破算にされたことを根に持っての凶行だという。
 しかし事実はそうではない。己が足で大門をくぐるその日まで、輿入れを日延べにしてほしい。そうげんまんさせたのは糸吉本人だ。どこで話がこじれたのか、あるいは何奴かが意地悪に捻じ曲げたのか、いずれにせよそんな悪し様な流言で糸吉は側杖を喰わされようとしていた。
「助様の身請け話を袖にしたのは楼主じゃなくて花魁その人じゃねえですか。少し冷静になりましょうや」
「冷静になれとは口はばったい。見世番にあがったくらいで偉くなったつもりかい。調子に乗るんじゃないよ」
 善市の諫言にフキが返す刀でやり込める。男衆など饐えた飯粒にたかる御器齧。そう腐して憚らない女郎あがりのフキは、楼内で男がのしゃばり出ることを良しとしない。それだけにこのフキも、五十丸との折り合いは良くない。
「その出世も糸吉花魁に口添えしてもらったんだろ」
 フキの言葉に煽られるように誰かが半畳をいれる。
「そういえば、糸吉姉さんのところへ往くと必ず見世番さんに会うでありんす。先達ても荷厄介だのいじめるなだのと、痴話の諍いをしていんした。だからてっきり、二人はそういう仲なのかとばかり、思っておりんした」
 葵もさらりととんでもないことをいいだす。そういう仲とは真猫、つまり善市は糸吉の情夫だといっているのだ。
「それは聞き捨てならないよ。見世の娼妓に手を出すなんて、あんた相応の覚悟はできてるんだろうね」
「糸吉姉さんと見世番さんが真猫なら、それがご楼主様を亡き者とする理にもなるのではありんせんか?」
 葵に焚きつけられたフキは青筋立てて善市を睨めつけた。
 葵がいうように糸吉と善市が慇懃を通じていたとしたら、そしてそれが五十丸の耳に入ったのだとしたら……。
 善市はよくて半殺し、悪くすれば本所に架かる御厩の渡し辺りで土左衛門となって揚がるのがおちだ。糸吉にしてみたところでお咎めなしとはならない。少なくとも、完済目前の前借金に罰則金が追加されると見てまず間違いない。
「したが、あっしは昨晩、桜田門で騒動を起こした水戸の残党が吉原界隈に潜んでいるとかで、面番所の寛作さんと見廻りに出てましたから」
 善市は暗に天狗の仕業という線もあることを臭わしたが、葵は取り合おうとしなかった。
「なら姉さん本人かしら?」
 昨夜の糸吉は馴染と同衾している。さりとて、客が寝入ってから寝所をこっそり抜け出すのは糸吉の得意とするところ。日ごろの悪癖が、ここで裏目に出た。
「不羈なる先々を見据えたその眼が、またぞろ薄汚れた黒板塀とお歯黒どぶに阻まれる。姉さんはそれをどう思う? ならばいっそ、ご楼主様をおろくにしてしまえば手っ取り早い。そう血迷うのも、わからない話ではござりんせん」
「葵さん、自分が何をいっているのかわかってるんですかい。あっしはなんといわれても構いやせん。でも、もうそれ以上花魁のことを――」
「なかなかに可笑白い推量だと思いんす」糸吉はいつの間にか内証まで下りて来ていた。「だからわっちが忘八殿をこの手で殺めた、葵さんはそう仰えすのですね?」
 仕舞い前のその顔は、白粉を塗る必要がないほどに白く、それでいて血の通った生身の温もりを透かせ見せていた。それとはあべこべに、葵の顔色はみるみる青ざめていった。「なら、わっちはそれでも構いんせんよ」
「ちょっとまってくだせぇ。構わないって、それは花魁が楼主を殺ったと認めるってことですぜ」
「殺したいほど恨んでいたかといわれればそんなことは無いけれど、憎いと思ったためしがないといったら嘘になる。好きか嫌いかと問われたら、好きという感情はおぞましくてわかりんせん。けど嫌いならわかりんす。ここまで育てて貰った恩義は承知しているけれど、殺したいと思ったことはない程度には嫌いだった。それが、わっちの本当の心」
 それでは答えになっていない。果たして糸吉は五十丸を殺したのか、殺していないのか。真の下手人は誰なのか……。真偽の程は闇のまま、糸吉がひとり全てを背負い込もうとしている。それを詳らかにする気は、きっとない。
「半の目が出たら許す、丁の目が出たら殺す。そう定めて賽に訊いてみた。賽はシゾロの丁と応えた。だから忘八殿には死んでもらった。そういうつじつまがあってもいいと思いんせんか。したが、そこに善市さんの入り込む隙はありんせんよ。葵さんの仰えす痴話の諍いだってただの戯れ。廓の御職を張るわっちと、たかが御器齧との間にいったいどのような係わりがありんしょう。ねぇ、見世番さん?」
 それはもちろんその通りなのだが……。その通りだからこそ、水を向けられた善市に応えは求められていない。
 糸吉から他人行儀に見世番さんなどと呼ばれ、己の無力さに打ちひしがれているだけの男に、この場を執り成すだけの才覚はない。それどころか、善市は助けられたのだ。だから駆けだした。今の善市にできるのは、その場を去ることだけだった。
「葵さん、あなたはわっちのことを寒牡丹と仰えしたね。そして自分は如何な花を咲かすのかと。わっちと葵さんの違いなんてせいぜい寒牡丹か冬牡丹の違いきり。でもね、どう足掻いてみたところで女郎は女郎。わっちら女郎が咲かすのは、夜ごと開いたその刹那、果敢なく散るが定めの徒花よ。そこを間違っちゃあいけんせん」
 莚の露払いの中で開いた牡丹の花が、新しい季節の訪いを告げている。その茎では、青々と豊かな葉が揺れていた。

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