侵食

機械式華憐小説集団

 パソコンに向かって書き物をしていると、つい寝食を忘れて没頭してしまうことがある。タスクバーを開いて時刻を確認すれば、すでに深夜の一時。ぎゅっと目を閉じる。
 昔から妄想に耽るのが好きだった。周囲の女の子たちが化粧を始めた頃に私は創作活動を始め、社会人となった今でも、空いた時間には自作小説を書いていた。登場人物たちが勝手に喋り物語を展開していき、それを文章に書き起こす。ただ、楽しいときと苦しいときがあった。欠乏する語彙力に苦しむこともあるが、それだけではない。シャワーを浴びて目を瞑るとき、背後になにかいるのではないかと妄想する。再びパソコンの前に座ったときも、背後になにかいるのではないかと妄想する。ベッドに横になったとき、その気配は家中を侵食する。
 ダイニングキッチンと寝室に分けた二部屋の間取り。マンションの一階で中部屋。とはいえ住人は片部屋だけのようで、安い賃料に惹かれてこの一〇二号室を選んだ。
 ベッドに入ってからしばらくして、予約されたエアコンが止まり、からからと音を立てる。キッチンからは水の滴る音。時計の針が乱れなく時を刻む。時折風が窓を叩いては、部屋の壁が軋む。玄関へと続く廊下の扉が開く。誰かがダイニングを歩く。誰かが寝室の壁にもたれかかる。起きて水でも飲もう。明かりを点けて、そしてこの目で確かめるのだ。誰もいないことを。これは些細な物音ですら妄想の糧にしてしまう悪癖だ。
 けれど、ベッドから立ち上がるまでもなく、いつも私は眠りに就くことができている。それは隣人の生活音。安さ故に壁が薄いのか、それとも隣人のいびきが大きすぎるのか。気に障るどころか、私にとってはそれが日常を引き戻す鍵となっていた。いびきも酷いが寝相も悪いようで、どたんと何かが倒れる音が聞こえた。しばらくは静寂。それから再びいびきが聞こえ始める。私はくすりと笑って、知らぬ間に眠りに落ちた。
 それでも私の悪癖は治る気配もなく、次第に心労が嵩んでくる。椅子に座れば、背後に棲むなにかが私の肩を叩くのではないかと怯える。足を急に掴んでくるのではないかと、そう思い浮かべるだけで額に汗が溜まり、悪寒が走った。そうして逃げるように寝床に向かう。たった二部屋の行き来の度に、その扉の隙間から何かが覗いていたかのような残像を空目する。シャワーを使うのは専ら朝だけとなっていき、横になってからも目の冴える時間が長くなってきた。隣部屋からの生活音。テレビだろうか。ばたばたと賑やかな音もするから、どうやら今日は来訪者が来ているようだ。騒音を私は心地よく聞き入っていた。
 翌日、出先から直帰するのも悩み、喫茶店に腰を落ち着かせた。そして冷静になって考えを整理する。もしかしたら本当にあの部屋には何か潜んでいるのではないだろうか。賃料が安いのは事故物件だからと言われても納得できる。事故物件であれば必ずその旨を公表しなくてはいけないと聞いたことがあるが。仲介は地元商売をしている小さな不動産屋。法に則っているなら大も小も関係ないが、窓口にいた暗めの男には、そこはかとない不信感があった。ではものの試しで訪ねてみるか。しかしいきなり、あそこって実は事故物件ですよね、と言うのは失礼が過ぎる。これは私の悪癖が起こしている可能性が大いにあるのだ。では探りを入れていくか。お化けを見たんですと言おうにも、どんな幽霊かと聞かれれば見たこともないのだから答えようがない。ラップ現象を録音するというのはどうだろうか。ただそれも家鳴りに過ぎないのかもしれない。何か気配を感じるんですと言えば、不審がられるのは私の方だ。訴えられ、追い出されでもしたら会社になんと言い訳すればいいのか。社会人一年目。雀の涙ほどの給料では、好き勝手に引っ越し、新居での家賃を払い続けることは難しい。ひとしきり考えて、やはり根底には「自身の悪癖」が原因だと思っていることに気が付いた。隣家の生活音で日常を取り戻せるのなら、やはりこれはただの妄想だ。
 すっきりとした気持ちで帰宅し、玄関を開ける。むわっとした空気を浴びながら廊下を進み、ダイニングのエアコンをつける。なんてことはない、日常だ。誰もいない。いっそのことこの妄想をホラー小説にできないだろうか、などとその時の私は呑気に考えていた。
 その日、ついに私は一睡もできずに翌朝を迎えた。いびきも物音も聞こえなかったのだ。隣人の気配が消えていた。
「引っ越した? いやでも」
 夜通し考えていた言葉を口にしても実感が湧かない。越してきたときにきちんと挨拶をしておくべきだったと、無意味に後悔もした。寝不足からか、どうも思考が乱れている。ベランダに出て朝陽を浴び、気持ちを鎮める。ふと仕切り板を眺めた。覗くのは躊躇われたが、代わりに嫌な予感があった。もし私のこの妄想がすべて真実で、事故物件だとして、潜む霊が周囲にも影響を出しているとしたら。いや、私の部屋で霊を見なかったのは、棲んでいるのは隣の部屋。もしかしたら隣人になにかあったのではないか。早計だと思いながらも、私はいそいそと私服に着替えると、外に飛び出し隣人を訪ねた。インターフォンを鳴らすが、誰も出ない。しばらく待ってみたが、やはり部屋の中からは物音もしない。落ち着け私。私だって何日か部屋を空けることだってあるだろう。なにも不自然なことではない。
「あら、どうしたのあなた」
 振り返ると、駐車場に一人の婦人が立っていた。訝しげに見られたが、隣人を訪ねただけだ。怪しくはない。
「その部屋、誰も住んでいないわよ」
 その言葉の意味を理解する前に、背後から急激な寒気を感じた。これは、あれだ。いつも背後に感じていた、あの気配。婦人に手招きされ、私は逃げるような気持ちで、しかし重い足を引きずるように駐車場へと出た。横目に一〇一号室が見える。
 婦人はどうやらこのマンションの三階の住人のようで、もう五年目になるという。いかにもな噂好き。この場合は事実なのだろうが、とにかく話したくて仕方のないという顔をしている。正直もう私としては、良くも悪くも真実を知ってしまいたいという心情だった。求めるまでもなく婦人は意味深長に話し始めた。
「そこに住んでいた人、あなた達の言葉でいうと構ってちゃんと言うのかしら。いい歳したおじさんだったけれどね。それで、普段は引きこもって姿は滅多に見せないの。なのにいつもわざと大きな音を出してね、それに腹を立てた一〇二号室の人が訪ねるわけ。そうするとドアを開けて、私も一度だけ見たことあるけど、長い髪と無造作な髭で本当に不気味だったわ」
 一〇一号室の住人は、笑って謝っていたのだという。
「それからしばらくそのやり取りが続いて、警察沙汰にするかというところまでいったわ。けどちょうど一〇二号室の人が引っ越すタイミングでね。これでようやく静かになるわ、なんて思っていたんだけれどね」
 そこで婦人に、こっそりと耳打ちをされた。
「亡くなったのよ、そこの部屋で。自殺よ自殺、首つり。誰も訪ねて来なくなったからかしらね。遺書には、来てくれてありがとう、なんて書かれていたそうよ」
 自慢げに話し終えた婦人は、さぞ満足そうにその場を去っていった。取り残された私は無心で共用廊下を歩き、自室の前に立つ。ドアノブに手をかけた刹那、視界の端、一〇一号室の扉が開いているのを見た。
 転がり込んだ。上手く呼吸ができない。確かに、開いていた。これも妄想なのか。思い返す間もなく、インターフォンが鳴り、尻もちをついた。そして扉を叩く音。来てくれてありがとう。声が聞こえた。慌てて内鍵を閉め、ダイニングまで這って逃げる。目についた窓。立ち上がって乱暴にカーテンで塞いだ。そこにじわりと影が浮かぶ。
 見ている。
 見ている。
 見ている。
 玄関も窓も、壁も叩かれる。聞こえているんだろうと、叩かれる。寝室から床の軋む音。違う、男はまだ外だ。いやだ。もうなにも聞きたくない。私はよろめきながらキッチンに向かい、包丁を手にとった。シンクに移る私の歪んだ顔を見やり、迷うことなく耳を斬り落とす。もう片耳も。そう口にしたはずが、その声はもう聞こえなかった。

 オチが弱いな。とあるサイトに上がった掌編を読み終え、独りごちた。タスクバーを開いて時刻を確認すれば、すでに深夜の一時。ぎゅっと目を閉じる。ふと背後に何者かの気配を感じた。
 見ている。

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