怪生物ミミミ

nameless権兵衛

「ほんとすんません、先輩。俺の配慮が足りなかったっす」
「も~、まだ気にしてるの。ああいうミスは新人なら誰でもやることだってば」
 そうと言われても俺は気落ちを隠せなかった。気配りの大切さは散々教えられてきたのに、またもやお得意先に渋い顔をさせてしまったのだ。ところが、そんな葛藤などどこ吹く風ぞ。先輩は容赦なく背中をバシンと叩いてくる。
「ほ~ら、いつまでも辛気臭い顔してない。行くわよ」
 ちっとも悪びれた様子もなく、すたすたと先行く小さな背中を、俺は苦笑いとともに追いかけた。
 今春、総務部から営業部へと異動となった俺は、先輩社員と組んで仕事を教わることとなったのだが、当初は不満でいっぱいだった。なにしろ朝比奈先輩は入社六年目で営業一筋とは言え、学歴は高卒。入社三年目、四大卒の俺より一つ年下で、しかも女だ。正直仕事は俺の方ができると自惚れていた。ところが実際現場に出て見ると、実力の差は歴然だった。先輩は抜群のプレゼン力に、取引先とのコミュニケーションも円滑で信頼も厚く、おまけにうまい男のあしらい方まで心得ている。対して俺は、口下手で空気も読めず、はっきり言って足を引っ張ることの方が多い。結果、組んで一週間も経たないうちに頭が上がらなくなり、一か月も経たないうちに惚れていた。もっとも今の俺は体がでかいだけの頼りない後輩だ。こんな立場では告白できるはずもない。だから一刻も早く一人前になって彼女に告白したいと思っている。おかげで今は仕事が楽しくて仕方ねえ。
 初秋の夕陽がビルの長い影を交叉点に落とす。週末を明日に控え、町行く人々はどこか気ぜわしそうで早足だ。今しがた最後の取引先への訪問を終えたところで、俺達も今日は直帰の予定。よし、ここは今日迷惑をかけたお詫びと言う名目で、先輩を居酒屋『権兵衛』にでも誘ってみるか。などと考えながら公園の側に差し掛かった時、その変な音は聞こえてきた。
 ミミミ…ミミミ…
 最初は何かの聞き間違いかと思ったが、先輩も怪訝な顔で辺りを見渡す。また聞こえた。何だろう、鳥の声とは違うようだが、どうも公園の奥から聞こえてくるようだ。二人して顔を見合わせると、俺達は音のする方へと歩きだした。
 音の主は、遊歩道沿いのベンチの下に隠れていた。それは俺達の前にのそのそと這い出してきたが、一体何なのかとなると、さっぱり見当がつかなかった。動物なのは間違いないだろう。ウサギくらいの大きさで、全身長い黒っぽい毛で覆われている。その毛に隠れているせいで、目や耳はおろか、手足すらはっきり見て取れず、まるで毛糸の塊が蠢いているようだった。どこか得体のしれない不気味さを覚えたのだが、先輩はそうは思わなかったらしい。
「きゃ~、なにこれ、可愛い」
 止める間もあらばこそ、先輩はその生き物を抱き上げると、猫の子でもあやすように可愛がり始める。そう言えば先輩はぬいぐるみとか小さい動物に目がないんだった。傍から見ると愛らしい姿なんだが、どうにもこの頭の中に響くような、ミミミと言う鳴き声が気に障る。そうこうしているうちに先輩は、生き物を抱いたまま俺に背を向けて歩き出す。
「久我君…、私この子と一緒に帰るわ…」
 よほど気に入ったのか、どこかうっとりしたような声でそう言うと、そのまま公園の奥へと歩み去ってしまう。らしからぬ行動を呆然と見送った俺だが、姿が見えなくなってからようやく気付く。しまった、居酒屋に誘い損ねた。

 週明け、出社するなり驚きが待っていた。何の連絡もなしで、先輩が出社してきてないのだ。上司が連絡してみたが電話にも出ないので、今日の初仕事は先輩の様子を見てくることとなった。飲み会の帰りに送ったことがあるので、先輩のアパートの場所は知っている。ところがついてみると新聞受けに新聞がたまったままで、日付から察するにこの前公園で別れてから帰ってきてないようだ。ここにきて俺は本気で心配になってきた。もしや何らかのトラブルに巻き込まれたんじゃなかろうか?
 とりあえず先輩の立ち寄りそうなところを当たってみよう。焦りに駆られてアパートの階段を駆け下りると、その途中、近所の雑居ビルの合間に見覚えのある女性が入っていくのが目に入った。今のは先輩か?遠目でよくわからなかったが、似ていた気がする。訳も分からぬままに、俺はその人影を追っていた。
 ビル間の狭い路地を抜けると、そこは四方をビルに囲まれた空き地の様な所だった。はたして先輩はそこにいた。いったい何があったのか。彼女はこちらに背を向けたまま両手を天に掲げ、何かをぶつぶつと呟いている。
「朝比奈…先輩?」
 恐る恐る声をかけて見ると、先輩はこっちに振り向いた。ひどい姿だった。最後にあった日と同じグレーのスーツはよれよれで、髪はぼさぼさ、化粧もボロボロ。まるで何日もどこかをさ迷い歩いたような格好だ。虚ろな表情の先輩は、それでも俺を認めると、どこかぎこちない歩き方で近づいてくる。
 もう一度声をかけたが返事はなく、先輩は目の前まで近づいてきたかと思うと、おもむろに抱き着いてきた。
 驚きは本当に束の間だった。すぐに腕を締め付けられる尋常じゃない力に呻き声を漏らす。いったいこの細身のどこにこんな力が。あがく俺の顔に先輩は顔を近づけてくると、限界いっぱいまで口を開く。その喉元から何か黒いものがせり出してきた。
 こいつは!と思う間もなく頭の中にミミミと言う音が広がり始める。耳を塞ぐこともできず、その音は百万匹のセミが鳴きだしたように頭の中を蹂躙し始める。そのうちおかしなことに気分がだんだん良くなってきた。なんだか気持ちよい惰眠を貪ってるかのように意識が引きずり込まれそうになる。このまま意識を委ねてしまったらどんなに気持ちいいだろう。
「やめろ!」
 危ういところで叫ぶと、先輩の身体を思いっきり突き飛ばしていた。ジンジンと頭が痛む。今のはいったい何だったのだ。だが、悠長に驚いている暇などなかった。突き飛ばされた先輩は身を起こすと、蜘蛛のような四つん這いになって後ずさりする。
 この時見た光景を俺は一生忘れないだろう。先輩の口から獣じみた苦鳴が漏れたかと思うと、突如スーツの背が赤く染まり、メリメリと音を立てて背中から何か黒いものが飛び出し来たのだ。血と体液に塗れ、長い毛で先輩の背とつながっているそれは、間違いなく公園で見かけたあの生き物だった。
 それがその生き物の本来の姿なのか、先程よりも強烈なミミミが頭の中で響き始める。だが、俺の心は驚くほど静かだった。先輩が……死んだ。その受け入れ難い事実は沸々と燃えるような怒りへと変わり、他の何物をも凌駕し始める。
「うるせぇ!」
 一喝するとピタリとセミの鳴き声がやんだ。どうやらこいつは俺にミミミが効かないと判断したのだろう。先程とは違う笛のような声でミミミと叫びながら、先輩の身体を蜘蛛のように操り逃亡に移ろうとする。だが俺は逃げ道を塞いで歩み寄り、ビルの角へと追い詰める。
 怒りが俺を突き動かしていた。この汚らわしい生き物から一刻も早く先輩を救ってやりたい。その一心で俺は足を振り上げた。
「…いつまでも俺の女にしがみついているんじゃねえ!」
 全ての怒りを込めた俺の蹴りは、狙いあやたまず生き物を打ち抜く。そのままコンクリ壁に叩き付けると、足の下で固い殻がつぶれるような感触が伝わってくる。汚い染みをビル壁に残し、そいつは死んだ。
 肩で荒い息をつきながら、俺は伏したままピクリともしない先輩を見下ろしていた。白い背中から脊椎が露出しており、確かめるまでもなく死んでいるのは明らかだ。悲しみが込み上げてきて心が押しつぶされそうになる。だが、悲しみに打ちひしがれる前に、俺にはまだあることがあるようだ。
 最後の生き物の鳴き声はどうやら仲間を呼ぶためのものだったらしい。いつの間にか空き地の入り口に三人の人影が現れ、うち一人、いや一匹は四つん這いだ。こいつらが何者かは知らん。興味もない。だが先輩を死に追いやった奴の仲間は一匹残らず根絶やしにしてやる。俺は雄叫びを上げながら奴らに向かって駆け出した。

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