未耳《イマダミミニセズ》

水野洸也

 雨の森にはひどいにおいが充満する。潤った空気が、ゾンビの肉をますます腐らせていくからだ。健康体だった若者が急に足腰の痛みを訴える。子どもや老人はそれ以上で、夜が再び澄み渡るまでにどれほどの被害が出るか、中央政府の方でも把握しきれないほどである。
 そんな憂うべきゾンビ王国の一画で、老人と子どもが走っている。木々の隙間を縫いながら、ぬかるみに脚を取られないよう神経を昂らせている。その後ろではわらわらと、ゾンビどもがうごめいている。「追え、追え!」という楽しそうな声が、中でも一際目立っている。
 翁の脚は限界だった。不死の肉体を手に入れたことで脚力は上昇したものの、使えばそれだけ消耗する。湿気による腐食も馬鹿にならない。
 骨ばかりのその手を、小さな子どもが必死の形相で先導していく。目には涙がたまり、唇は震えっぱなしだ。けれどもここで挫けるわけにはいかない。あんな生活、もう戻りたくない。
(あっ!)
 恐れていた事態がついに発生する。脚が木の根に引っかかり、前のめりの体は勢いよく宙を舞う。互いの手が引き剥がされ、行き先を見失った老人はその場に崩れ折れる。
 ぐるりと世界が回転する中、少年の目が最後に捉えたものは、もはやすぐ後ろまで迫ってきた男たちの、無慈悲で残忍な舌なめずりだった。

「――察するに、相当酷い目に遭ったのだろう。まだ小さいのに、かわいそうに」
 少年の頭を、ネリーが優しく撫でる。元々は中央政府で務めを果たしていたが、上層部のやり方に疑問を抱き、自らネオゾンビに志願した女戦士である。
 女の丸まった背中を、ゴーシュが感心の面持ちで眺めている。
「ふーん。君にもそういう一面があったんだ。あんまり鍛えすぎて、心の筋までピキピキだとばかり」
 青年の無邪気な笑みは、顔面への強烈な一撃によって粉砕されてしまう。ゾンビ化を果たしたとはいえ、馬鹿にされれば不快な気分にはなる。「殴られた」という精神的ダメージも、脳内にきちんと保存される。
「君ねえ! 僕たち付き合いも長いんだし、そろそろ熟年夫婦の落ち着きを身につけるべきだと思うんだけど」
「短気をこじらせたババアと揶揄されているようにしか聞こえん。出直せ」
 ぷいと背中を向けてしまう。「ちょっとー」と弱々しく手を伸ばすも、両眼がつぶれてしまったためにどこにいるのか見当もつかない。狭い小屋で立ち往生するゴーシュにやきもきしたハルが助太刀に入る。この春から彼らの仲間入りをした新入りの乙女である。
「ありがとうハル。やっぱり君は僕の天使だ」
 ゴーシュの笑えない冗談にネリーは身震いする思いだが、言われた本人はまんざらでもない様子。両頬に手を当て、薄紫色の火照った感覚をいつまでも楽しんでいる。
「で、ネリー。この子は耳が聞こえないらしいけど?」
 改まったゴーシュの声に、ネリーは「うむ」と頷く。
「ゾンビ化後にというのは聞いたことがないから、人間時代から既にそうだったのだろう。さっきから努力はしているのだが……私には少し、荷が重いようだ」
 女戦士の懐に抱かれた少年は、「あー」や「うー」を駆使して何かを伝えようとしている。だがそれを聞き取るだけの能力がこちらにはない。
 どうしようかと考えあぐねていると、新入りの乙女がおずおずと手を挙げる。
「あの。少し、任せてはもらえないでしょうか? 字が、書けるかも……しれないから」
 皆の注目を浴びながら、裸の地面に《お名前は?》と指でなぞる。すると少年は「きゃー」という声を発すると、《エイ》という字をその斜め下に丁寧に記した。

 ハルが人間時代の記憶を大分有していることを知ると、エイは堰を切ったように自分のことを綴ってくれた。裕福な家庭に生まれた彼は六歳の冬休みに親戚の家を訪れ、その際ゾンビに襲撃された。家族は枯れ果てた姿で無造作に打ち捨てられ、生き残ったのは少年だけだった。助けを求めて彷徨うも、そこは人里離れた山の奥。息絶えそうになったその時、雪に埋もれた彼をすくい上げてくれたのが件の老人なのだという。
「不幸中の幸い、というわけか」ネリーが呟く。「何にせよ、無事で本当に良かった」
 少年の顔がネリーの体にすっぽり覆われる。平和なその光景にゴーシュの口元も自然に綻ぶ。かつては与えられた指令のままに多くの命を奪ってきたはずだ。その中にはエイより小さな子もいたに違いない。
 ハルは次いで、エイの身に何が起こったのかを問いただす。この森で老人と子どもが不遇な扱いを受けていることは百も承知。大方良くない話であることは予想がつくが、それでもだ。
 エイは時間をかけながらも全てを語ってくれた。
《ぼくとおじいさんは二人ぐらしをしていました ほかのゾンビが血を分けてくれないから自分でなんとかするしかありませんでした みんなにはないしょでどうにか生きていました
 でも少し前に近所のゾンビにばれてしまいました 本当はみんなもズルしているのに ぼくたちだけが悪い者扱いされました 罰として他の村で力仕事を言われました それはとても大変で ぼくたちはいじめられました 食べ物をよこどりするゾンビもいました 辛かったのでぼくたちは逃げることにしました
 でもダメでした おじいさんはつかまりました ぼくもすぐつかまります あなたたちはネオゾンビだからやさしいけど 他のゾンビはこわくてきらいです もうあんなところで生きたくないです》
 その一文字一文字を噛みしめながら読んでいくうち、ハルは意外な心地に満たされた。囚人として捕らえられていた私を救ってくれたのはゴーシュだ。今まで何の力にもなれずに、ただその後ろをついていくことしかできなかった。けれども今、こうして文章の内容を伝えていくことで、ようやく以前の恩返しができているような、そんな気持ちになっていたのだ。
 事情を聞き終えたゴーシュは、騎士のような峻厳たる態度でエイの正面に膝をつく。その表情は牢獄の乙女に手を差し伸べた時と同じ勇気を湛えていた。
「大丈夫だ。君のおじいさんは、この僕が必ず救い出してみせる。だから君は、もう何もかもへっちゃらだ」
 声は向こうには届かない。しかし意志は伝わった。エイは大きな声でゴーシュにしがみつく。自信たっぷりだった青年の顔つきが、一瞬にして柔らかくなる。
 一方でネリーの顔色はすぐれなかった。あの子は知らないのだ、何も。老人ゾンビの寿命の短さも、自分自身についても。十分な血を摂取できずに痩せこけた体、長時間雨風に晒されたことによる急激な腐敗の進行。そうやってはしゃいでいられるのが不思議なくらいだ。
 先々のことを考えると不安ばかりが募る。これじゃ駄目だと頭を振る。少年から目を逸らして以後の彼女は、既に女戦士の面持ちだった。
「よし。早速救出しに行きたいところだが、まだ役者が揃っていないな。私の方で、頼りになりそうなやつをあたってみるよ。お前たちはその間に腹ごしらえを済ませておけ。戦力としては期待しないが、途中でへばってしまっては荷物が増えるだけだからな」
「はーい」という気の抜けた声。ネリーは安堵のため息をつくと、自分の任務を遂行すべく外の闇夜へと姿をくらます。
 私にできることは? ハルは急に心細くなってくる。きょろきょろと周囲を見回すとふと、ネリーがいなくなってしまったことで不安にうろたえる少年が目につく。あの人のようには上手くいかないかもだけど、この子を安心させてやりたいという思いだけで、今は十分なはず。
「ねえ」とその肩に触れる。見ててと指で示してから、地面に三日月模様を描いてみせる。その隣に狐も描く。すると作業に見入っていたエイがきゃっきゃという様子で猫の絵を並べてくる。ゴーシュが血や果物を準備してくる頃には、小屋の床全てが絵しりとりで埋め尽くされていた。参加者が一人増えたところで地面を均し、もう一度最初からやり直した。

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