未×実×身

猫のテブクロ

 右を六時から一時まで巻き戻し、返してまた六時まで押し進める。丁度を知らせる分針が、左側面で零時を指す。それを足底で出迎えるようにキャッチする。(正確にはキャッチさせる)。一時までにクリート(金具)を嵌め込まなければ、次に左足で踏み込むのに手間取る。足間取る。ここがスムーズに行けば、今日の運勢はバリ吉だ。
 いつもの巡航速度までグイグイ踏み込んで行く。「十円ちょうだい」と差し出す手のように、ハンドルからヌッと前方に突出するサイコン(サイクルコンピュータ)に目を落とすと、俺の胸元からヌーっと巨乳が生えてくるのが見えた。何を言っているのか分からないと思うが、ありのままを話している。
 これもペダルと同じで慣れないと深刻な事故につながるケースかもしれないが、幸い俺は慣れている。巨乳が生えてくることにではない。これは俺の目を覆ってるグラス型デバイスが見せる電子の幻なのだ。

 お前も利用しているかもしれないバーチャルサイクリングアプリ、室内でローラートレーニングしながら仮想現実のマップを走るアレだ。アレは現実世界の地理情報に基づいているため、GPSサイコンを用いれば、どこか知らんこの世界の片隅のライダーともマッチングすることができる。誰かの体験してるVR(仮想現実)が、他の誰かのAR(拡張現実)体験に反映されているわけだ。俺はそういうトロン世界のライダーとの抜き差しに慣れている。
 それってメッチャ危なくない? 賢明なお前は問うだろう。俺は慣れているが、もちろん社会はこうした運用を許容してはいない。大丈夫、お前の周りにも溢れてる、言わなきゃ知れない罪のひとつだ。言っちゃったけど。
 巨乳の持ち主(ボインオーナー)は今や完全に俺を抜き去り、デカケツをこちらに向けている。上述のようなソーシャルの側面もあるのに全裸とは傾いてやがる。強烈なアトラクトだが、正体はチポリーニか。アプリ越しにメッセージを送る。
"Hey, you! Lady Godiva!!"
"Chocolate? I'm a Queen of this bicycle race."
 なるほどよくわからん。言葉の意味はわからんが、何やら強烈な煽りなんだと思う。
 ところでお前は白尻が好き? 黒尻が好き?
 俺は綺麗なものが好きなんだけど、あの尻に追いついて、レスリング用語で言うベリー・トゥ・バック、つまりおなかとせなかがくっつけば、これはもうリモートセックスの出来上がりなのでは? と閃いた。
 タイツの中でサポーターにくるまれて眠っていた「やつ」が目覚める。デスオントゥーレッグス、二本足の上にそそり立つ死神よ!
"I will **** you! Too much love will bite the dust!"
 互いに意味が通じてるのかどうかわからない。だが、これが俺とボインオーナーとの開戦の合図だ。

 ロケーションはダム湖外周。この辺ではバイカーにもよく知られたスポットだ。平地の感覚で走りやすいというのとは違うが、「思い切り」という言葉を付け足すのなら、踏み込むのも倒すのも、普段はできない程度まで存分に堪能できる場所だ。もしお前がビリヤードでテーブルから球をすっ飛ばしたり、ボーリングで放物線を描いてしまうやつだとしても、そこは喜んでお前を迎えてくれる。
 ただ、そうした場所には採石場だったり大規模な工事現場も多いので、ぐるっと回っていくと砂を敷き詰めたような一帯がどこかにはある。路面状況を確認せずお調子こいてると、全速力のエネルギーがお前自身に襲いかかる。慢心創痍って言わないか? 言わないか。
 正直、今目の前でそうした道を全裸の女が曲がっていくのを見ていると、そこにいないとわかっていても寒気がする。俺は決してスリルを求めない。その征服を、支配をこそ求めているのだが、他者のスリルは克服のしようがなく、ただただもどかしい。
 危険地帯を抜けた後もタイヤはきなこもちみたいにサラサラの砂をまとって、極度にグリップが落ちている。水溜まりを見つけたなら敢えて「お清め」するのもいい。ただし後続車へ跳ねを飛ばすのは非紳士的行為で罰金だ。徴収してやるぞこのバ美肉野郎!
 次の橋を渡った先のカーブを曲がるとダムの管理所があり、そこからこの湖周回コースを出る下り坂にも続いている。ここまで何とか食い下がってはいるが、一向に差は詰めきれていない。やつが飽きて下ることを選んだなら、それはつまり勝ち逃げられたってことだ。
 前方で一足早く橋に乗り上げたやつが、何かにハンドルを取られ、尻文字を書いたようだった。横風だ。それに路面、ここから先は縦方向のグルービング(溝加工)が施されている。
 四輪の自動車と違って自転車のタイヤは平たくない上に、極めて細い。アスファルトに刻まれた溝に「足を取られる」と、その向きにタイヤを固定する力が働き、微妙なハンドリングが利かせにくくなる。急にこの二つが合わさったため、対処が遅れたのだろう。ペダリングもペースを崩すとまた元の調子まで上げるのに大きく脚を使わされる。
 後ろで状況を見ていた俺は風の吹いてくる右側に体重を掛けつつ、レコード盤に針を落とすよう、自らタイヤを溝に乗っけていく。ケイデンス(回転数)は落とさない。むしろ一気に上げていく。初手で躓かなければ、次のカーブまで全力で行ける。
 やつが橋に入ってからここまで数秒のことだったが、俺は隙を逃さない。立て直した様子の尻に食らいつき、カンチャンずっぽし首を差し込んでいく。スカルファックだ。
 尻に火がついたのか知らんが、俺の目と鼻の先でリアルカモシカのような脚が高回転を始める。逃がすものかよ!
 ほぼ同時に車体を倒し込んだ直後、デッドカーブの奥からせり出してくる大型トラックが目に入った。考えるより先に手がブレーキを握り込む。できるだけ内側へ逃げようとアスファルトに身を投じた俺を置き去りにして、ボインオーナーが突っ込んでいく。
 無理でしょ、と思う間もなく、やつの豊満な肢体がトラックの腹に呑まれていくのが見えた。その後に続くよう、俺も路面を滑って行く。轢き潰されるかと思った次の瞬間、俺の体はその無敵の車輪を通り抜け、道の端まで滑走して、ガードレールの支柱に衝突して止まった。一瞬置いて、膝から、肘から、肩から、腰から、全身を割り砕くような痛覚が広がっていく。固く目を閉じて、それをやり過ごす。吐く息が自然と声音を帯びているようだったが、どんな音を発していたか判然としない。耳鳴りだけが聞こえて、他は全てぼやけていた。
 ようやく目を開くと、トラックの運転席から男が降りてくるのが見えた。

 その手に握られた銃は、特別な任務を負ったランナー(エクスキューショナー、ターミネーターとも呼ばれる)の所持するブラスターであることが、私にはわかる。
 男はかつてファットボトムガールであったところのミンチに銃を向けたまま、注意深く近づいていくようだったが、やがて完全に沈黙しているのを認めたか、その遺骸を抱え上げ、トラックのコンテナに放り込んだ。コンテナに書かれたホリゾント工業という社名が、バーバラ・セクサロイドのメーカーを意味することももちろん知っている。
 運転席に戻っていく男と一瞬目が合った気がしたが、電子の垣根を超えて霊視することは不可能だろう。
 マッドストーカー、あそこで彼と遭遇できたのは僥倖だった。彼は自分からドアを開け、私を迎え入れてくれたのだ。衛星通信を経て、私と彼の距離はゼロまで詰められた。
 今となってはこの男のアバターこそ私の身体なのだし、彼なんて他人行儀な呼び方もおかしいかもしれない。とはいえ、このなりすましアカウントがBANされるのも時間の問題だろう。

 立ち上がり、サドルに跨ると右足を六時から零時に巻き戻し、押し返すようにまた踏み込む。
 一時までに次の寄宿先が見つかれば、今日の運勢はバリ吉だ。

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