みみみ姉ちゃん

三崎春哉

 相模利樹との出会いは、私が十二歳の頃だった。同じアパートの同じフロアに引っ越してきたのだ。母親と共に挨拶に来た利樹を、私も母に呼ばれて玄関先で迎えた。玄関のドアの向こうに隠れるようにして立っていた少年は、母親に促され幼い声で自分の名前と年齢が六歳であることを話した。だから、次に私も名乗った。
「美伽。塩見美伽です」
 無意識なのか、利樹が反応する。
「しおみみみか?」
 私は訂正する。
「違うよ。し・お・み・み・か」
「し・お・み・み・み・か」
「うーん、『み』が一個多いかな」
 このやり取りを聞いていた親たちがくすくすと笑う。それに気づいた利樹が顔を真っ赤にして、今度は叫ぶように言う。
「しおみみみか!」
 やっぱり言えてない。たしかに私の名前は言いづらいと思う。私が物心つくころには、父は月に一度だけ家を訪ねてくる存在だった。当時はよくわからなかったが、今なら察することができる。私はどこかのタイミングで父の姓から母の姓へ変わったのだ。
 その日から、私と利樹は少し歳の離れた幼なじみとなった。利樹は私の名前を言えなかったことがよほど悔しかったのだろうか。わざとからかうようなニュアンスを含めて「みみみ姉ちゃん」と私を呼んだ。思えば、この頃から意地っ張りな性格をしていたのである。

 私が十六歳の時の話だ。私のかつて通っていた小学校では、学校行事の運動会とは別に、父兄たちが主催する運動会がある。本来の運動会よりも気楽な雰囲気で景品も出る。もちろん、当時私はすでに高校生。弟も妹もいないので顔を出す理由はないのだが、人付き合いの良い母が地区の代表として参加していて、私もその手伝いに引っ張り出されたというわけだ。
 私は順位係をやらされることになった。順位係とはゴールラインの脇で、競技を終えた子供たちを順位通りに並ばせる係である。小学生だった頃、あれだけ大きかったグラウンドが小さく可愛らしく見えた。
 五十メートル走が始まる。一年生から順に進行し、やがて四年生の番になった。スタートラインに並んだ子供たちの中に、体操服を着た利樹の姿を見つける。向こうも私に気づいたのだろうか。目が合ったような気がした。利樹にはまだ、このグラウンドが大きく感じられるのだろうか。
 ピストルが鳴る。必死にこちらへ駆けてくる男児たち。利樹はというとスタート直後から徐々に他の子供たちから離されていき、結果はビリであった。私は一位の子から順番に手招きする。利樹に声をかけるのは最後になる。利樹は納得がいかない表情で、にらむようにこちらを見ていた。
「なんで、みみみ姉ちゃんがいるんだよ」
「お母さんの手伝い」
「来るなら来るって言っておけよな」
 そう言って足元の砂を蹴る。
「どうして利樹に許可をとらなきゃいけないのよ」
 それから私は利樹を慰めるように頭をポンポンと叩いた。
「一位をとって、世話になってるお姉ちゃんに景品をプレゼントしてくれると思ったのに」
「誰がプレゼントするか!」
 利樹は私の手を払いのけた。
 それがきっかけになかったのかはわからない。利樹は毎朝、通学前にランニングをするようになった。彼は意地っ張りなのだ。

 二十一歳の冬、駅前で偶然利樹に会った。私を見たときに「おっ」と声を上げたのは、私がスーツ姿だったからだろう。その当時、私は就職活動をしていた。
 一方、利樹は中学三年生。中学に入ってから背がぐんぐん伸びて、すでに私よりも高い。陸上部に所属しているらしく、体つきもがっちりしていた。
「似合わねぇ」
「うるさいわね」
 ちょっと話そうということになって、コーヒーショップに入った。私はカフェラテ、利樹はホットコーヒーを購入し、窓際のカウンター席に座る。
「正直、私もまだしっくりきていないのよ、このスーツ。最近、就活始めたばかりでさ。何をすればいいのかわからなくてあたふたしてる」
「ふうん、大変なんだな」
 意外にも利樹は神妙な顔つきで私の話を聞いていた。
「利樹も覚悟しておいた方がいいよ。つい最近までのほほんと勉強しているだけだったのにさ。急に突然、社会で何ができるかなんてことを求められるんだから。私って何の取り柄もないんだなって痛感しちゃった」
 利樹に愚痴を聞かせるつもりはなかった。ただ、大人は大変なんだよ。お姉ちゃんはもう大人なんだよと格好つけたかったのだ。
「取り柄がないなんて言うなよ」
 利樹が真顔で言う。
「その……、姉ちゃんは誰にでも明るくて、周りまで楽しい気持ちにさせてるっていうか。そういうのって姉ちゃんが思ってるほど簡単にできるわけじゃないと思うぞ」
「……あ、ありがと」
 いつまでも生意気な子供だと思っていたのに、利樹が大人のような気遣いを自然に身につけていることに驚いていた。私は少し気が楽になっていた。利樹の言葉が嬉しかったのもあるが、それよりも彼と話していてわかったのだ。私だってこれまで多くの人と関わって、その度に新しく何かを知った。そうやって、社会に出てからも焦らず少しずつ成長していけばいいのかもしれない。
「利樹のおかげで元気出たかも」
「そっか」
 利樹は照れくさそうに笑った。

 そうして長年続けてきた近所付き合いにあっさりと終わりがくる。利樹の家が一軒家を購入したのだ。引っ越し先はそれほど遠くない隣町だったが、日常的に顔を合わせることはなくなってしまった。その頃、私はまだ入社したばかりの新人で余裕がなく、しっかりとしたお別れを言うことすらできなかった。

 今、私は二十四歳。会社ではもう新人とは呼ばれないけれど、まだまだ慣れないことだらけの社会人生活を続けている。
 十二月半ばの日曜日、家のチャイムが鳴ったので玄関を開けると利樹が立っていた。
「これ、お歳暮。どうせなら、たまには顔を見せてこいって親が言うからさ」
 そう言って紙袋に入った箱を突き出した。

 すぐに帰るという利樹を、私は駅まで送ることにした。久しぶりに会ったので歩きながらでもいいから話がしたかったのだ。利樹はまた身長が伸びていた。顔つきも以前より引き締まっていたが、目元だけは昔のままに見えた。お互いの近況報告と他愛のない昔話で会話が弾む。
「みみみ姉ちゃん。もしかして、結婚とか……考えてたりするのか?」
 突然何を言い出すんだ、こいつは。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「母さんが、姉ちゃんはそろそろ結婚の適齢期だって言ってたからさ」
 おばさん……。今時、二十四歳で適齢期っていうのは少し早すぎやしませんか。
「ひみつ。まぁ、もしかしたら、近々名字が変わって『みみみ』じゃなくなるかもね」
 もちろんそんな予定はない。ただ、利樹をちょっと驚かせてやりたかった。リアクションを期待していたのに、利樹は黙ってしまった。そして、ぽつりと言葉を零した。
「俺とだったら『みみみ』でいられるのに」
 えーと……「さがみみか」ってこと? 
 心なしか歩調を速めた利樹の後ろ姿を見ると、耳が赤くなっていた。それに気づいて私も動揺してしまう。
「利樹、み、みみが真っ赤だよ」
「うるさいな。『み』が一個多いぞ」

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