人形供養

ひつじ

 箱の底で指先がふんわりと毛に触った。沙耶は懐かしさに思わず声をあげた。引き出されたのは、掌に載るほどのぬいぐるみだ。
 白かった毛は薄汚れ、灰色の毛玉だらけになっていた。お尻にちょこんとついたしっぽも、毛が抜けている。お腹を押せば「めえぇ」と鳴く仕組みになっていたが、電池はとうの昔に抜いていた。黒いビーズのつぶらな瞳だけが記憶にあるままに愛らしい、羊のぬいぐるみ。そこだけ色がきれいなリボンに小さなプレートがさがっている。
 幼稚園に通っていた時分から就職するまで、常に目に見えるところへ置いていた思い出の品だった。なのに、ここ十年ほど忘れ去っていた。
 厳しい就活で心が疲れ果てたとき、灰色の背中を撫でると気持ちが落ち着いた。今も勤めている会社から内定がもらえたときは、ぬいぐるみの胴上げをした。
 学生時代、失恋した夜は抱きかかえて泣いた。泣いて泣いて、ようやく気持ちが静まったときにぬいぐるみはぐっしょりと重みを増していた。苦笑いしながら、洗面台に水を張り、しっかり手洗いしてやった。その時に、色あせ、元の色が分からないほどにくたびれた首のリボンは切れてしまった。今リボンだけが色鮮やかなのは、取り替えたからだ。
 小さいときから気が弱くのろまだった沙耶は、小学生時代によくいじめられていた。話しかけても無視されたり、嫌なクスクス笑いで遠ざかられることは日常茶飯事だった。嫌なことがあった夜は、ぬいぐるみを布団の中にいれて寝た。いじめられた理由は、今でも謎だ。もしかしたら、原因に気がつかないほど沙耶がぼんやりとしていることが、彼らを苛立たせたのかもしれなかった。
 ひとつだけ、はっきりと原因の分かる事例はある。
 幼稚園でみんなで歌を歌っているときだった。『メリーさんのひつじ』の歌詞を、沙耶は間違って覚えていた。
 めーりさんのひ、つ、じ
なのに、沙耶は
 めーりさん「は」ひ、つ、じ
 と歌っていたのだ。本気で、そういう歌だと思っていた節がある。
 なぜなら、この羊のぬいぐるみが首に付けているプレートには「ひつじのメリーさん」と書かれているのだから。丁度、家族で遊びに行ったテーマパークでぬいぐるみを買ってもらった頃に、園で歌を歌ったのだ。
 間違いに気がついた先生が、みなの前で指摘した。
『さやちゃん。メリーさんは羊じゃないよ』
 大人からみたら何気ない指摘。だが、沙耶は他の子供たちにはやし立てられ、顔を真っ赤にして、粗相までしてしまった。
 沙耶の気持ちを知ってか知らずか、マニュアルがあったのか、先生はしばらく毎日のように、「メリーさんのひつじ」を園児に歌わせ、その度にやんちゃな子は面白がって沙耶を振り返っては、「めーりさんはひ、つ、じ」と歌った。
 苦くも懐かしい思い出に浸ったのち、さて、と沙耶は考えた。
 このぬいぐるみを、どうしよう。
 古ぼけたぬいぐるみは、三十代半ばの独身女性の部屋に飾るには微妙だ。かといって、幾多の哀しみを慰め、喜びを分かち合ってくれたつぶらな瞳を、割引シールの張られた惣菜パックや小さく切った公共料金の明細などといっしょに可燃ごみへ入れるのも気が引けた。
 乾燥でネイルが映えない手でスマホを取り、検索する。
 人形供養をしてくれる寺社は、ここから遠かった。しかし、郵送でも受け付けてくれるようだ。費用はだいたい千円からが相場で、供養した後、報告書や小さな卒塔婆を送ってくれるところもあった。
 卒塔婆までは、要らないかと沙耶は唇の端を上げた。せめて、なにか壷型の入れ物へ報告書を入れるくらいかと、ブックマークにページを保存した。
 翌日の昼休憩、さっそく沙耶はぬいぐるみを入れた箱を手に席を立った。
「あー、お腹すいた。あら、外食? いいわねぇ」
 年上の同僚が、弁当を机に出しながらニヤニヤした。ちょっと角の郵便局まで、と会釈する手元を、同僚はじっとりと見た。予め用意していた伝票を目ざとく見つけたようだ。
「人形供養?」
「部屋の片付けをしていたら出てきたので」
「わざわざそんなの、お金が勿体無いじゃない。その辺からコピー紙を二、三枚もらって、塩振って可燃ごみに出しちゃえばいいのよ」
 責められているように感じるのは、何故だろうと考えながら、言い訳のようなものを残して外へ出た。
 同僚は、沙耶と似たような年齢だが既婚者だ。保育園に子供を預けながら働いている。家計のやりくりが大変だと、毎日三回はぼやいている。彼女から見れば、たかがぬいぐるみを一体処分するために焚き上げ料と郵送代を出すことは難しいだろう。合計二千円ほどは、彼女の毎晩の晩酌二日分に相当する。彼女の唯一の楽しみを犠牲にする価値はないのだろう。
 郵便局の窓口の男性は、とても爽やかに、とても事務的にぬいぐるみを預かってくれた。
 帰り道の信号待ちで、沙耶はSNSを開いた。
『価値観の違いって、ツライ』
 投稿して、思った。
 ぬいぐるみに頼らなくなったのは、SNSを始めたからではないだろうか。ぬいぐるみに聞いてもらっていた愚痴や喜びを、不特定の誰かにこぼしている。反応が無いのは、どちらも同じだ。

 数日後、ねえ、と同僚がメモを片手に話しかけてきた。
「この前異動してきた社員の歓迎会、あなた、行かないわよね」
 職場の飲み会への参加率は低い。亭主や家族の悪口で盛り上がり、下ネタに盛り上がる仲間についていけないのが理由だった。しかし、勝手に決め付けられたことにわだかまりを感じた。
「行きますよ」
 短く返し、同僚のメモの参加者欄へ名前を書く。目を白黒させる彼女を残し、給湯室へ向かった。
 きっと今頃彼女は、他の仕事仲間と沙耶の悪口を言っているに違いない。何あの態度、とか、いつもは来ないくせに、とか。
 ため息をついていると、スマホが鳴った。
 一通のメールが、ぬいぐるみが滞りなく供養されたことを知らせてくれた。添付された画像には、たくさんの人形が並べられた中、沙耶の羊は背が低いので最前列に、しかし一番端っこで、隣の世界的に有名な黄色いクマの影に隠れるように立っていた。まるで、沙耶自身を見ているようだった。
 いつも通り、レストランでのつまらない飲み会が終わりに近付いた頃。デザートに、ガレット・デ・ロアが運ばれてきた。固いパイのようなホールのガレットのどこか一箇所に、豆粒ほどの陶器の人形が隠されている。当たった人に幸運が訪れるといわれるロシアの菓子だ。
 職場の上司が切り分け、最初の一切れを今日の主役である社員へ渡した。同僚たちが皿を手に押し寄せ、沙耶は最後のほうの一切れをもらった。
「あ、ありました」
 主役が、もごもご紙ナプキンで口を押さえて手を上げた。店員がにこやかにそれを受け取り、洗ってきてくれる。
 盛り上がる一団から離れたところで、沙耶は表面だけの笑顔で手をたたいた。なんてことはない。ガレットの一部に、人形が入っている場所が記しされているだけだと、沙耶は知っている。
 三々五々、家路につくと沙耶と主役は同じ方向になった。
「よかったら、これ」
 差し出されたのは、さっきガレットから出てきた人形だった。
「この前、ミスをフォローしてくれたお礼です。それに、なんとなくですけど、こういうの似合いそうだから」
 豆粒ほどの羊。
 小さいながらも細い金の線で角が描かれ、胴に緑や赤で花が描かれていた。独身女性の部屋に置いていても違和感がない。
 遺骨のようなその羊を、沙耶は礼と共に受け取った。

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