断食以後

アイスキャンディ

 断食芸人が行方をくらましてから一〇余年の時が経った。今では本名はおろか、その通り名を記憶する者も数少ない。彼のことを崇拝してやまない私だってそんなことは承知している。表立って彼の話題を出すわけではない。
 ただ不意に、その手の話題を持ち出してみたくなる。ともに街を闊歩するさなか、劇場の前を通りがかることがある。こんな時、思わず喋りかけてしまうのだ。突飛な印象を与えないよう、慎重かつ大胆に。
「そういえば、断食芸人って聞いたことあるか?」
 振り向いたのは同じ大学の友人だ。以前は地方に住んでいたが、入学の時期に合わせて安アパートを借りた。
 友人は首をかしげ、憐れむかのように唇を歪ませた。
「だんじきげいにん? 新作映画のタイトルか何か?」
 一〇年前は昼夜を問わず、劇団やサーカスの催しでにぎわっていたものだが、今もかろうじて生き残っているのは、目の前の大劇場一つになってしまった。もう少しすれば収益が立たなくなり、有能な劇団員は離れていき、動物は殺処分され、人々の興味はより映画という新たな娯楽へと移っていくことだろう。断食芸人が人々の興味を惹かなくなったのも、時代の流れの一環だったというわけだ。
 新たな人間関係ができあがるたび、私は断食芸人のことを知っている同志を探し求めた。けれど今までにそんな人間に出くわしたことはなかったし、今回も駄目そうだった。私は友人の本気で戸惑う様子に微笑み、いつもより力を込めて、彼の肩に手を置く。
「いや、俺の勘違いだったのかもしれない。そんな馬鹿、いるわけがないものな」
「さっきから、何の話をしてるんだ?」
「なんでもない。さ、とっとと飯にしよう」

 それでも諦めるつもりなどなかったし、今も断食芸人がどこかで生存しており、あの驚くべき断食を継続しているはずだという希望を捨てるつもりもなかった。大学生活のかたわら、私は断食芸人が好んで行きそうな場所をめぐり彼の痕跡を追い続けた。
 ある時は、東洋の修行者が好みそうな断崖絶壁。ある時は、各地で細々と営業を続ける興行団体。あるいは本当に、映画に出演している可能性もある。あの男のことだ、自分の芸を世間に知らしめるためであれば、手段は選ばないはずである。世界で一番有名な芸人になるか、世界で一番哀れな生活をまっとうするか。あの人には極端な道しかない。
 断食芸人を初めて観に行ったあの日を思い出す。その時は確か、断食を始めてからちょうど四〇日が経過していた。雇い主の命により、断食はそれ以上は行なわれない。それ以上続けたら観客の興味が失われるからという話だったが、理屈は今でもよくわからない。
 魚の小骨を束ねたに等しい体つきだった。そしてだいぶ年を召していた。格子つきの、ぎりぎり一人分の生活スペースが確保された小さな檻の中。断食芸人は布一枚の姿で地べたに尻を落ち着けて、すっかり窪んでしまった眼を斜め下に向けていた。就寝用のベッドは背もたれとして使われていた。テーブルにはグラス、その下には大量の水。断食って聞いてきたのに水を飲んでいるじゃないかと、当時の私は両親に文句を言ったものだ。
 今は異国の地で幸せな結婚生活を営んでいる姉が、とある仕事を任されていた。四〇日間の断食を終えた断食芸人を、檻の外へと連れ出す大役だ。姉とは別のもう一人の女も、この仕事を任されていたのだが、二人は見ず知らずの赤の他人で、時間になるまで一切口を利かず、互いにぎこちない視線ばかり交わしていた。特に父親からは、大変誉れ高い名誉ある仕事だと聞かされており、意気揚々と現場まで駆けつけたはいいものの、当の本人を目の前にして、戸惑いを隠せないでいる。断食芸人は風呂にも入っておらず、何匹かの蠅が周囲をうるさく飛び回っていたので、それに対する嫌悪感もあったのだろう。
 楽隊のファンファーレと共に檻の鍵が開けられ、断食芸人が外へと連れ出される。彼をおぶったのが私の姉だ。もう一人の女は、芸人の細い指を、隣でそっとつまんでいた。芸人の顔が触れないよう、姉は必死の形相で首を伸ばしていた。たぶん重たくはないので、運ぶこと自体、さほど苦労はしなかっただろう。だが、広場の中央まで断食芸人を運ぶのに、時間にしておよそ八〇分はかかったに違いなかった。その間もずっと、前を歩く興行主の話し声と、大げさなファンファーレの音は鳴り止むことがなかった。
 中央の台上までやってくると、姉は断食芸人を下ろし、彼を一人で立たせる。もう一人の女が、ずっと大事に握りしめていた指を、マイクスタンドの方へと導いてやる。楽隊の音が止み、興行主のけたけた声もしなくなる。「この日をもちまして、私は断食生活を終えたいと思います」芸人のかぼそい声が響きわたると、堰を切ったようにして、観客が叫び声を上げた。多くは称賛の声だったが、中には本気で芸人の安否を心配する人もいた。私はそのどちらでもなく、ただただ、彼のその唯一無二の神業に惚れ惚れしていた。

 一時期は弟子入りを志願したほどだったが、断食芸人は決して許してはくれなかったし、断食自体、頑なに禁止した。「君が断食を始めてしまえば、いよいよ私の出る幕がなくなってしまうからね」と冗談めかしていたが、真意は謎に包まれている。断食そのものが目的だったのか、断食をすることで得られる褒美が欲しかっただけなのか。あるいは人々が大勢見守る中で悲劇的な死を遂げたいという夢を、あの年になっても持ち続けていたのか。

 大学卒業を控えた数日前、断食芸人のことを知っているという人間と、ついにコンタクトを取ることができた。手紙によれば、彼もまた、一〇余年前に断食芸人を見知って以来、その才能に心を打ちぬかれた一人だそうだ。私より二〇ほど年上だが、文面だけ見ると気さくで、人懐っこい人物に思えた。
 男は現在、郊外のサナトリウムで療養中だった。彼もまた、断食しているのではないかと疑ってしまうくらいやせ細った体をしていた。背が高く、しゃきっとしているところは芸人とは違っていたが。
 部屋に入ると、私とそう年の変わらない女が軽く一礼してきた。ベッドに横たわったままの男と握手を交わした後で、彼女のことを紹介される。結婚はしていないが、自分の最愛の女性であるとのことだった。
「あのひとは今、どこにいるのでしょうか」
 質問すると、彼は太い眉を持ち上げ、眉間にしわを寄せる。
「それは私が聞きたいくらいですよ」
 我々の会話はあまり弾まず、静かに微笑み合う時間の方が長かった。その間、女はまるでそこにいないかのように黙りこくったままだったのが印象的だった。
 ようやく出会えた同志に対し、もっと感動を示すこともできたのだと思う。しかし、予期していたほどの衝撃はなく、むしろ目の前のこの男にこそ、興味を惹かれていた。彼がどういう人生を歩んできたのか、なぜ療養生活を送っているのか? 意識していたわけではないが、その手の話題には一切触れられなかった。ただ、ひさびさに誰かと対話をすることのできた歓びに満ちあふれていたことだけははっきりしている。
 気がつくと、外は日が暮れようとしていた。断食芸人のことを覚えているのは我々だけかもしれませんねと、去りぎわに男に話しかけると、彼は女に何かを言いつける。女が差し出してきたのは、クリップでまとめられた七、八枚ほどの原稿用紙だった。
「断食芸人が今も生きているのかどうか、もはや誰にもわからなくなってしまいました。かろうじて彼のことを憶えている我々でさえ、行方を辿れなくなってしまっています。ですが一〇数年前に彼が達しえた偉業だけは、文章として残しておかなくてはならない。これはそうした一心で書かれたものです。どうぞ受け取ってください」
「あなたは、一体」私の声を遮って、彼は話を続ける。
「ご心配には及びませんよ。原本はきちんととってありますから」

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