いいわけ

和七

 娼妓が客を寝所に誘う夜八つ――。昼過ぎからしとしとと降りはじめた淫雨が、今では篠突く雨に変わっていた。屋根を叩く雨音のおかげで、閨事の嬌声も遠い潮騒のよう。
 宴席で止め処なく酒を注がれた楼主の五十丸は、内証の寝床で地鳴りみたようないびきをかいていた。ただでさえ喧しい雨の音に五十丸の大いびきが重なる。それに辟易した内儀は、うんじ顔も露に別室へと避難していった。
 暗闇から伸びる蒼白い腕。呼吸のたび波打つ、醜く肉付いた太い首。絡みつく華奢な指。少しずつ、ゆっくりと、しかし確実に、まるで親密な帳みたように重さを増していく。泥のように寝入った五十丸に、それに抗う術はない。
 申し訳程度に振り回した手と足はあたかも蟷螂の斧。苦し紛れに畳を叩いてみせても、そのさざめきは奏でたそばから雨音に掻き消されていった。

「糸くずを持ってきてくれませんか」
「そんなもの、どうするつもりでありんすか」
「なるたけきれいなものがいいですね」
 葵が集めた色とりどりの糸くずの中に、ポトリと何かを落とした。
「なんでありんすかそれは」
「みの虫ですよ」
 白墨翁がそういうと、葵は小さな悲鳴を上げて翁の腕にギュッとしがみついた。
「こうしておくとね、そこにある糸くずを使ってきれいな蓑を拵えるんです」
「それは楽しみでござりんす……」
 そういってはみたものの、本当は気味が悪いきりだった。
「みの虫の雄は成虫になったら蓑を捨てて空を飛ぶようになるけれど、雌は一生をその中で過ごすんだそうです。蓑の中に雄を誘い込んではそこでせっせと子作りに励み、最期は地面に落っこちる」
「翅があるのに飛ばないのでありんすか」
「成虫になっても雌に翅は生えません。だから、雌の蛾が蓑を出るのは、死ぬ刻だけ。おやおや、どこかで聞いたことのあるような話じゃありませんか」
 そういって白墨翁は笑った。
「葵さんももう突き出しだそうで、先達て五十丸楼主からあなたの水揚げを頼まれましてね。葵さんのことは、あなたがこの廓に来たその日から知っていますから、それはややこしい心緒になりましたよ。でもね、楼主に見込まれたからには精いっぱい努めさせて貰おうと思っています。あたしが相手じゃ不満もあるかもしれませんが、ここはひとつ、よろしく頼みますよ」
 新造の水揚げは楼主が吟味した御仁に懇請する習わしとなっている。そこで候補に挙がるのは、遊女の扱いに長けた粋人や分限者。白墨翁はここ木花楼の御職である糸吉の馴染であり、江戸でも名うての通人でもある。人品骨柄申し分なく、そのうえ翁の手にかかれば初手から悦びを覚え、今後一切床で苦痛を伴うことはなくなるという。その手並みはまるで神仏の御業。これ以上の適役は他にいない。
「なんでも糸吉花魁の前借金も返済の目処が立ったそうで、じきに大門をくぐって出て往くとか。あまつさえ、神保町の豊島屋さんの許へ輿入れすることも決まってしまったという。本当はこのあたしが糸吉花魁をもらい受けたかったというのが正直なところだけど、先を超されてしまったんじゃあしょうがない。男の悋気ほど野暮なものありませんからね。しかし困りましたよ。このままだとあたしの敵娼を務めてくれる花魁がいなくなってしまう。そこで白羽の矢が葵さん、あなたに当たった」
 葵は見目形だけを取ってみれば、糸吉をも凌ぐ器量を携えている。そしてそれに見合うだけの技量も仕込まれた、次期御職の呼び声の高い引込新造だ。あと足りないのは娼妓としての手管だけ。さりとてそれは白墨翁の好きな色に染められるということの裏返しでもある。こっちも、これ以上の適役はない。
「あちきに糸吉姉さんの代わりなんてなれっこない」
「誰だって、誰かの代わりなんてなれませんよ。でも、葵さんがどうしても嫌だというのなら、水揚げの話を水にするのはやぶさかじゃありません。けれどね、だからといって突き出しが消えてなくなるわけじゃありませんよ。あたしじゃない誰かにお鉢がまわる、それだけのことです」
「白さんが嫌な訳じゃござりんせん。あちきは――」
「遊女になるのが怖い?」
 葵が頷くと、その瞳から涙がほろりとこぼれ落ちた。
「あちきは花魁になんかなりたくない」
 姉女郎の晴れ姿に憧れて早く突き出しを、そう望む気丈な新造も中にはいるが、葵はそうではなかった。大人になることを恐れ、女郎になることを恐れ、明日を恐れていた。
「だったらあたしに考えがあります。聞いてみますか」

 五十丸の亡骸が見つかったのは、女郎たちが二度寝から起きだしてくる昼四つの鐘が鳴る少し前。楼主が深酒でいつまでも顔を見せないでは示しがつかない。そう案じた内儀に差配されて呼びにいった男衆が見つけたのだった。
 糸吉が怪しい……、そんな話を広めるのは造作もなかった。それだけが唯一の楽しみとばかりに噂話に花を咲かせる遣手のフキ。あれに一寸呼び水を差せば、後は勝手に顛末を拵えてくれる。其実、フキに聞かせたのはこうだ。「糸吉さんは閨を抜け出すのがお好きなようで」

「楼主である五十丸さんさえいなくなれば木花楼はなりたちません。たとい誰かがその跡目を継いだとしても、人の口に戸は立てられない。江戸の男たちはことのほか縁起やゲンに執心する気風がありますから、誰が好きこのんで楼主が頓死したような不吉な廓に足を向けたがるでしょう。幽的に覗き見されてるなんて思ったらおちおち娼妓を抱いてもいられない。なんてったってここは吉原、妓楼は掃いて捨てるほどあるんですから。本来なら余所に馴染みを拵えると白い目で見られるけど、事が事だけにみんな目を瞑ることでしょう。そうすれば木花楼はお仕舞いです。そしてあなたも晴れてお役御免て寸法です。なんなら、向後の勤め先を口利きしてあげることだってできますよ」
「でも、誰かがご楼主さまを――」
「息の根を止めなければならない?」
 白い顔を更に白くして葵はためらいがちに頷く。
「誰かが――、ではありません」白墨翁は形のいい葵の小さな耳に舌先をつけて囁く。「あなたがやるんです」
「そんな、できません」
「だったら! 誰かにあつらえてもらった絢爛な着物を纏ってお仕着せの畢生を過ごせばよろしい!」それまでの柔らかな物腰から一転、翁は剣突にいい放った。「五枚重ねた緋縮緬の蒲団の中に、巫山の夢見たさに代わる代わるやってくる男どもを迎え入れればいい。たとい浄閑寺に投げ捨てられてその生涯を閉じようとも、放免の刻をただ待ち焦がれる。そんな日々を望むのならあたしはもう何もいわない。そもそもそれがあなたの本来の定めなんですから!」
「そんな……」
「何も悩むことなんかありはしない。ただじっと突き出しの日を待ちなさい、他のご新造と同しように。そしたらあたしが、きっと立派な『みの虫』にしてさしあげますから」
 色とりどりの糸くずの海に堕とされて、無様に体をくねらすみの虫。そこに、緋縮緬の蒲団の中から生熟れの秋波を不器用に送る己の姿が重なる。葵の背筋に怖気が走る。気づいた刻には翁にしがみついて、必死に嫌々をしていた。
「真の不羈を望むなら、誰かを当てにするのは些か虫が良すぎる。こればっかりは己でなんとかするしかないんです」
 白墨翁の諫言に、葵は何度も頷いた。
「心配いりません。あなたは五十丸さんの首に手を添えるだけです。その罪咎は糸吉花魁に着せましょう。後はこのあたしが何とかします。お天道様の下で胸を張って大門をくぐるのは、糸吉花魁じゃあない。あなたですよ、葵さん」

 すじ違いの濡れ衣に、抗弁も弁明もしないで糸吉はすべてを受け容れた。なぜそんなことができるのか――。
 四郎兵衛に連れられるその後ろ姿に伸ばしかけた手を、葵はあわててひっこめた。 その掌が、犯した咎と五十丸の血で確かに汚れていたからだ。洗ってもこすっても落ちないその痕は、墨刑のごとく彫り刻まれた罪過の滓。この期に及んで、糸吉にかける言葉などあるはずもない。
 ただ、あちきだってやりたくてやった訳じゃない。そうするしかないから、そうしただけ。そういいたかった。
 葵はその言い訳を飲み込んで天を仰いだ。靄に煙る黒板塀が常より高く、雨上がりの低い空に突き刺さって見えた。

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