少年の永遠

もじぴったん

 母親の産道から顔を出した瞬間、産声を上げるよりも先に自分は少年だという感覚が雄叫びを上げた。
「少年! 少年!」
 そのあとに自分がこの世に生まれたことを取り囲む大人たちの様子から悟り、取って付けたかのように泣いた、泣きわめいた。大人たちが安心するまで大袈裟に泣いて一段落してから、誕生と同時に現れた少年であるという感覚について考えた。
 少年とは何か?
 生まれたばかりの彼にはそれを知る術がない。やがて彼が声に気付き、その高低や抑揚、振幅と反響、発音の歯切れ、息継ぎに含まれた法則を理解し、それらを押し固めて簡潔な絵図として平面に残したものを文字と呼ぶことを知ってから数年後、本棚のなかにある辞書で少年という言葉を探すまで彼は少年の意味を知らない。
 ただ少年という感覚だけが先行していた。彼はそれを追うことばかりに腐心していたので、両親が頻繁に口にする音が自分の名前だと気付いたのも小学生になってからだ。
 どうやら自分には少年とは別の名称があり、そちらの方がより限定的な自分を示しているらしい。しかし、だからといって、これまで歩んできた道を離れる理由にはならないだろうと、彼は少年を名乗り続けた。
「少年、少年!」
 生まれながらにして自身の行く先を見据えている彼は、同年代の子どもよりも落ち着きを払った態度を取る。周囲が喜んで湧き立つ場面や悔しがって涙する場面でも表情一つ変えずにそれらの光景を眺めては、彼らもまた一人の少年になるのだと、ただただ想いを巡らせていた。そのように周囲から一歩引いた彼の姿は、大人たちの目に思慮深さとして映った。将来は大物になるのではないかと期待を寄せられていたが、取り立てて勉強が出来るわけでもなく、かといって運動が得意な様子も、何か一芸に秀でている素振りもない彼が誕生日を迎える度に評価は当初の位置から徐々に遠ざかっていき、変わった子、変人、落ちこぼれ、と順を追って移行していった。
 ただしそれは周囲の評価であり彼本人にとってはなんら意味のないもので、精々彼の鼓膜を不用意に振動させる雑音程度の影響しかなかった。彼は呼び表された何ものでもなくただ少年だった。
「少年少年!」
 彼はずっとある行為に夢中になっていた。
 それは文字と文字を、単語と単語を、言葉と言葉を繋ぎ合わせるものだった。
 無作為に選んだいくつかの言葉の似通った面や噛み合わせを見付けて組み合わせ、必要であれば他の言葉で補強を施して一つのまとまりにする。そうすることにより、一見無関係に思えていたもの同士が渾然一体の塊となり、目前に立ち現われてくるのである。彼はそれを手に取り、顔を寄せて出来映えを眺めることが何よりも好きだった。
 たとえば彼が初めて辞書で引いた《少年》という言葉と、その手前にあった《情熱》という言葉。これは実際の紙面上で隣り合っていることもあり、類似点の発見は容易だった。
 まず頭韻を踏んでいる。そもそも五十音で並んでいるので当たり前だ。それ以外に通ずる点はないかと、意味を説明する数行の文章を読み、そこから顔を上げて夜空を仰ぎ、気配、新月のような、徐々に夜へと透けていく星に目を凝らす。
 あわやかにうすくはりつめた暗闇の仄かな灯り、夜空への透光は拡散より収束に近くて、消失、いや焼失? くらくはりさけそうだけどもえている 明るみの恒星に向けた燃えたぎる反抗期 抵抗 見境なしの反発、発憤、不相応、そぐわない行路でも走進を続けるあれらは そうか 道先の暗闇を恐れぬ熱源の変化過程だ。
 その閃きを頼りに《燃焼しない情熱を少年は円熟せずに抱えて》と一続きのまとまりを作ってノートに書きつけ、そのまま布団に倒れ込んだ。
 激しく動いたわけでもないのに息が上がり、風邪でもないのに全身が発熱していた。頭もぼんやりとしていたが、意識は閃きのままどこまでも澄んでいて
  まるで
    ぼくが
        いなくなってしまったみたい  だ
 と思う頭のなかでは、それまで散漫に配置されていた言葉が一挙に立ち上がり、一糸乱れぬ掛け声とともに整列をはじめていた。
 数多地平の端から端まで数珠つなぎ、大空を横断する飛行機雲のように並び立つその一列、ああ、目が眩んでしまうほどの果てしなさに、それまで均一な心音を刻んでいた胸が初めて大きく打ち鳴る。
「少年!」
 彼はその変調に色めき立ち、繰り返し、寝るのも忘れた夜のなかで、繰り返し、起きるのも忘れた夢のなかで、繰り返し、言葉の接合を繰り返し、繰り返した。
 朝と夜は限りなく接近した。朝ごはんは夜ごはん、下校が登校、おはようございさようなら。自分が起きているのか寝ているのかも分からなくなるほど、自分がどこにいて何をしているのかも気にならなくなるほど、彼は繰り返す、繰り返して出来上がったものをノートに書きとめ、それを眺めて、やや微笑む。
 彼の両親は、学校からいつの間にか帰ってきた息子が遊びにも行かずに部屋に閉じこもっていることを心から不気味に思った。まるで彼が爆弾でも作っているかのような、それこそ彼自身が爆発物であるかのように接し、彼が中学を卒業したその日に1万円札が20枚入った封筒を手渡し、今日からあなたはこの家を出て一人で生きていかなければならないと告げた。彼は無言で頷いてその封筒を受け取り、言われた通りに家を出た。
 それ以後の彼の行方は杳として知れず、その20枚の札でどのように人生を生き抜いたのか、あるいは何も出来ずに死んでいったのか情報は一切残されていない。ただ、彼がいなくなってから街の各所に不可解な文字列が現れるようになった。
 犬の小便あとの残る電柱に《さか上がり途上、蹴り上げた炎天に靴を残して居残り授業》と記され、石垣に貼られた選挙ポスターの片隅には《完熟知らずともトマト戸惑わず》と、T字路にある掲示板の裏面には《目を閉じてチャリをこぐ はでに転んでも手は抜かない》自動販売機の小銭投入口の斜め下に《空き瓶に忍びこんだ魚影には夏を砕いてあげるね》猫の首輪の内側《からすいぬねこ対抗残飯食競争》合鍵を隠した植木鉢の底《身にあまる葛藤 等身大の寝台でふて寝して》郵便ポストの角《忘れてもいいのに几帳面に指切り》道端に座り込んだ男の外套に刺繍された《酒気帯びで歩く隙を見てアルコール》片方だけ落ちているハイヒールの側面《危うさは夜に足取り 踵の重心だけは見失わないこと》と、探さなければ見つからないが探そうと思えばすぐに見つかるような場所にその文字列はあった。
 それらはサインペンで《他人任せ、悔しさは報われなくてもいい》と書かれているときもあれば、線の細いボールペンで《笑い飛ばせない冗談に身を沈める もうおやすみを言わずに》消え入りそうなシャーペン《ひび割れに向けた愛想笑い、今日もこれで生きていく》雨滴のあと《季節外れの移ろう情緒においてけぼりさ》釘のような鋭いもので刻んだ《先延ばしにした分だけ見えない暗路 不安と嘔吐、あとは下痢》殴りつけたような《それでも走りだしたらもう止まれない》飛散した血痕《ぼくや きみたちの なかにも ある》あとに残せる様々なものを駆使して街中に記され、刻まれ、残されていた。
 一体誰が書いているのか密かに噂になっていた。彼の両親は彼が去ったあとに部屋から出てきた莫大な量のノートとそのなかに記された夥しい文字の集まりを知っていたので、すぐに彼の仕業だと分かった。きっとお金を使い切って野垂れ死にした彼が怨霊となったのだと思い込み、急いで霊媒師を呼んだ。
 霊媒師はまず彼の部屋に山積みにされたノートに火を放ち、これで息子さんの無念は天に向かいましたと告げてから、霊験あらたかな塩を街中に振り撒いて両親から40万円を巻き上げた。
 車道や歩道、横断歩道と交差点、道路という道路に撒き散らかされた塩の一粒一粒をたどると《少年の永遠》と読めたかどうかは定かではないが、霊媒師が去ったあとも文字が街から消えることはなく、今この瞬間にも着々と残されている。

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