きまぐれ

ムラサキハルカ

 ある時、雲の上にいる神は桜藍子に肩入れしようと決めた。理由はと問われれば神の考えることだからよくわからない。神が桜藍子に懸想しただとか、想像もできないような悪意を抱いていただとか、ちょっと虫けらで遊んでみようと思ったとか、それらしい理由をつけてみてもいいのかもしれなかったが、実のところどうでもいいので、きまぐれ、ということにしておく。ついでに言えば、雲の上というのもあくまでも便宜上の表現であるので、あしからず。
 話が逸れた。とにもかくにも神は桜藍子に肩入れしようと決めて、その願いにちょっとした力添えをすることにした。そのちょっとした力添えとは桜藍子が一目惚れした三津田武雄の注意をほんのわずか彼女へと向けることである。とはいえ、神にとってのほんのわずかは既して人々にとってのたいしたに相当する。今回もまたその例に漏れず、神の力添えはわずかなものではなくたいしたものになった。三津田武雄は桜藍子を一目見ただけで恋に落ち、すぐさま口説き始めたというのだから、やはり神は偉大である。
 ところでこの三津田武雄には婚約者がいて、結婚式まで秒読み段階だった。ここで三津田武雄がとった選択は、空気を読むでもなんでもなく、別れてくれ、と頼みこむことであった。三津田武雄の婚約者であるところの姫川郁美は突然降りかかってきたわけのわからない事態に、なんで、と尋ねる他ない。そして、三津田武雄の答えもまた、どうしようもないほど好きな人ができた、の一点張り。そしてそれは紛れもない事実であった。当然、姫川郁美が納得できるはずもない。なにせ、つい先日まで別れの予兆もなく、むしろ互いに結婚後の生活に期待を寄せていたのだから。一時の混乱がおさまったあとの姫川郁美は、真っ先に怒りを露にし、続いて関係の継続のためなんでもするからと懇願し、それが聞き届けられないとわかると再び憤怒し、やがて泣き崩れることになった。そんな姫川郁美を見た三津田武雄の胸には当然罪悪感はあったものの、それ以上に先日交際の約束を取りつけた桜藍子との輝かしい未来の方が頭の中の比重を大きく占めていた。これからこの婚約にかかわった人々に謝って回るつもりこそあったものの、そんなことで気が重くならないほど三津田武雄は幸福だった。この時も、桜藍子との次なる逢引きに三津田武雄の関心のほとんどは占められていたため、姫川郁美に向けられる罪悪感は蟻んこ、どころか微生物に等しいものだった。その後も姫川郁美はおおいに怒りおおいに呆然としおおいに泣き声をあげたものの、三津田武雄は一ミリも動揺することなく、それどころか最後の方は面倒くささすら漂わせて話を聞き続けた。
 このような経緯から姫川郁美は突然開いた心の穴を持て余すこととなった。その裏で三津田武雄が親戚一同に罵倒され時には鉄拳制裁されたり絶縁されたりしていたものの、だからといって姫川郁美の心が晴れるわけでもない。簡単な事務仕事すら手につかなくなり、上司にパワハラすれすれの罵りを受けたり、どこからか情報を掴んだ同僚たちに陰で笑われたりした。ごくごく一部の仲の良い同僚は心配してくれたものの、今の姫川郁美は物事の悪いことばかり捉える癖がついているからその声は届かない。半ば夢遊病のようになりながら、ただただ過ぎ去る毎日の中に身を置く姫川郁美。その裏では桜藍子と三津田武雄が熱い口付けを交わしあっているものの、姫川郁美には知る良しもないし知りたくもないだろう。いっそのこと、武雄さんを刺して私も死のうか。そんな妄想が頭に浮かび、実際に自宅で包丁の刃に顔写しじっと考えこむこともあったが、そんな度胸もなくて結局やめる。そんなことを何度か繰りかえしたある休日。チャイムを耳にして扉を開けた姫川郁美は、やってきた市川翔太に開口一番に問いかけられた。あなたは神を信じますか。そんなものいたらこんなことにはなっていないなどと思ったあと、神のことなど欠片も信じてないと実感したものの、わざわざ、いいえと口にするのも話の枕を折ってしまっているようで心苦しく、何も答えられずにいた。そんな姫川郁美の態度にかまわず市川翔太は自らの神とそれがもたらす救いなどについてつらつら語っていく。姫川郁美は、典型的な宗教勧誘だな、と呆れ半分関心半分で聞きながらも、ところどころに挟まれる信者が救われた話などを耳にして、そんな都合のいい話があったらいいなと思いながら不思議と心が楽になっていくのを感じた。結果的に姫川郁美は宗教の集まりに参加することを了承した。一回くらい行ってみてもいいだろう、という軽い気持ちで。
 姫川郁美の勧誘に成功した際、市川翔太は例のごとく神なるものを信じてもいい気になっていた。元々、こうした勧誘も宗教にどっぷりはまった両親の付き合いの一環で嫌々やらされていたが、一見すると人懐っこく見える市川翔太の勧誘成功率が高かった。今回もその例に漏れず集まりに姫川郁美を誘うことができたわけだが、同時に実際に宗教の集まりに連れて行くのは多くても二回か三回にしようと決めていた。それ以上は市川翔太の実益的に無駄極まりない事柄だった。そして計画通り、何度かの顔合わせののち、市川翔太は姫川郁美と同衾することに成功する。これもまたいつも通りのことであった。ちょうど同じ頃合で桜藍子と三津田武雄もまた深く愛を確かめ合っていたが、市川翔太が知るわけがない。ただ、普段の勧誘の流れでまぐわう女性たちの中でも、姫川郁美の目はより一層生気が欠けていた。その点は市川翔太も気になりおずおず尋ねてみると、姫川郁美は婚約者に突然別れを切り出されたことを話した。こうした背景が市川翔太の興味を引いた。傷心している女を慰めてそのままというのはありがちな手口ではあったものの、ここまで大きくはっきりとした傷を負っている女というのは新鮮に映った。そして、そんな女の心の穴を埋めているという実感も、市川翔太の自尊心をおおいに満たした。もっとも、それも最初の二三ヶ月ばかりのことで、その後、彼女面をしはじめた姫川郁美が段々と重く、鬱陶しくなりだした。ちょうど姫川郁美に対する物珍しさみたいなものも薄れ、飽きはじめていた頃合だったため市川翔太はいつも通りはっきりと、飽きた、と告げて別れを口にした。経験則的に中途半端に距離を取ったりすれば余計に拗れそうだと読み、すっぱり切り捨てようと決めたゆえだった。姫川郁美は三津田武雄の時と同じようにして引き止めようとしたが、既に次の女である三国紗枝に当たりをつけていた市川翔太は聞き入れない。結局、姫川郁美の願いも虚しく市川翔太は次の女に向かった。
 三国紗枝はここのところ妙な視線を感じることが多くなっていた。それはもっぱら市川翔太との逢引の最中。気になって背後に振り向いてみるものの誰もいない。気のせいかと思うとまた視線を感じる。そんな繰り返し。思い切って市川翔太に相談してみたものの、へらへらとした態度で、気のせいでしょ、と応じるばかり。三国紗枝はこの新たな彼氏に頼りなさと小さな失望を覚えながら、どうしようかと考えてとりあえず警察に相談してみたものの、真面目には取り合ってはくれず、巡回を増やすとしか言ってくれない。周囲への警戒を強めつつも、どんどん格好悪く見えてくる市川翔太との付き合いをずるずると続けていた。そんな二人とは対照的に桜藍子と三津田武雄の仲はこれ以上ないくらいに深まっていたが、もう勝手にやってくれという感じである。そんなある日、市川翔太と別れを交わしたあとの夜道で突如としてなにかがものすごい速度で近付いてくるのが見えた。つまりは姫川郁美だったのだが、とっさに三国紗枝の体が反応する。小中高と両親に身につけさせられた護身術のなせる業だった。こうして三国紗枝は半ばわけのわからないまま狂気で目をいっぱいにした姫川郁美を押さえつけ見つめあうことになった。とにもかくにも姫川郁美から尋常ではない負の気配を感じとった三国紗枝は拘束を解かないようにしながら話しかけることを選んだ。何か悩みがあるのなら聞きましょうか。そんな一言は姫川郁美の頭の中に三津田武雄や市川翔太、これまで親交のあった人たちからかけられた優しい言葉を一時的に蘇らせたが、直後にどうせ裏切られるんだろうという絶望が全てを塗りつぶした。期待すれば裏切られる。その繰り返しだったのだから。そもそも姫川郁美自身、なにがしたかったのかわからなくなっている。神がいるんならみんな私と同じくらい不幸にしてよ。漏れ出した呪詛じみた呟きはか細く、それでいて不気味なほど力強かった。 
 雲の上では神が三国紗枝に少し肩入れしようと決めていた。自らの存在を証明しようとかそういう意図かどうかはさだかではないが、またきまぐれということにしておく。とはいえ、神の少しは……。
 その頃、桜藍子は三津田武雄とベッドで抱き合いながら、これ以上の幸せはないな、とうっとり目を閉じていた。

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。