ちらちら

ムラサキハルカ

 髪は神に通じるのかも。降って湧いたばかりの言葉を頭の中で転がしながら、季子は頬杖をつき前の席を見つめていた。その言い方はいささか不正確で、実際には座っている少女の背中に視線を注いでいた。もっと、正確に言えばその長い髪に。
 椅子の背凭れの上を覆うたっぷりとした黒髪は、座っている少女が起こす微かな振動からか、あるいは教室内の風のせいか、静かに蠢いている。夏の窓越しに降りかかってくる日の光が髪に反射されたのを見て、目を潰されそうだなと思いながら、季子は老古典教師の口にする呪文じみた声とアブラゼミの鳴き声を少しだけうるさく感じた。最後に板書してからけっこうな時間が経ったあとだったが、黒板に目を戻す気にもなれず、もう少しそばにある髪を見ていたかった。
 無造作に放し飼いにされたような黒く細いものの流れは、滝のようにまっすぐ下へと向かっていって、背凭れの途中でぷつんと切れる。季子は味気なさを覚えつつも、再び少しずつ視線をあげていきゆっくりと止めた。暗幕のようになった髪に覆われたそこには、おそらくうなじが隠れているはずだった。はず、などと回りくどく言わず、間違いないと言ってしまっても良かったかもしれないが、さしあたっては見えないのだから本当にあるのかもわからない。記憶していないだけかもしれないが、季子は今までこの少女のうなじを見たことがなかったはずだった。
 頬杖をついてない方の手でシャープペンシルを回しながら、季子は視線を動かさない。たぶん、真っ白なんだろうな。目の前にいる少女の肌の色を思い出し、うなじに重ね合わせていく。もしかしたら日が当たっていない分、もっと白いのかもしれない。ただでさえ、幽霊みたいな色なのに、それ以上に薄かったりしたら。そんな興味を覚えてシャープペンシルを落としてから手を伸ばそうとした。
 不意に少女が振り向く。覗いた横顔はやっぱり白い。大きくそれでいて眠たげな右の眼球が季子を封じこめたらしかった。らしい、なんて言い回しになってしまうくらい、少女の瞳は季子に対する興味が乏しげに見える。程なくして、少女は訝しげな顔をした。季子はなんとはなしに伸ばしかけの手をひらひらと振る。

「さっきのあれ、なに」
 同じ日の昼休み。机を突き合せた季子に対して、目の前の席の少女こと槙原が尋ねてくる。青いプラスチックの弁当箱からミートボールを箸に挟んで持ちあげる姿はどことなく間が抜けていた。
「暇だったから見てただけだよ」
 答えながら、槙原のぼんやりとした顔を眺める。もっともぼんやりとしているように見えるのはもっぱら始終眠たげなその目のせいで、整った鼻筋や細い唇なんかからははっきりとした顔のようにも思えた。野暮ったさの遠因はたっぷりとした髪かもしれない。
「そう」
 槙原は短く答えてからミートボールのはじっこを齧る。季子の目には、わずかに表情が弛んだように見えたが、気のせいかもしれなかった。そのままちょっとずつ肉団子を攻略していく様はどことなく小動物じみている。
 やりにくいな、と季子は思う。特定のグループに属さず、気の向くままに色々なところを渡り鳥している季子が槙原と食事をとりはじめたのは、たまたま先月の席替えで前後になったからという理由に過ぎない。もう少しだけ追求すれば大抵一人でいるこの少女にほんのわずかばかり興味が湧いたからだった。槙原もまた食べる相手がいなかったのでちょうどよかったというのもある。
 とはいえ、今のところ特に面白いことはない。季子がよく見たり聴いたりするバラエティや音楽の話題を振っても槙原は知らないと素っ気ないし、休み時間に槇原が一人で読んでいる本について尋ねてみても鬱陶しがって答えようとしなかった。それこそ時々、今みたいに槙原の方から話を振ってくる時も特に盛り上がらない。
 なんでこの人と一緒に食べてるんだろう。そんな疑問の答えは、なりゆき、という色気のないものだった。そしてそうでしかないことに小さな寂しさを覚える。
「なに」
 ミートボールを食べ終えて卵焼きをつまみあげた槙原に尋ねられる。季子としては、なんでもないよ、と答えるしかなかった。そしてそれに対する答えもまた、そう、というものでしかない。

 ある日の放課後、遊ぶ約束をしていたクラスメートが他校の彼氏とデートをすると言い出したことで季子の予定に穴が空いた。他の遊び相手もなんだかんだ予定があり、暇だなぁ、と思いつつ、帰るのも億劫で校内をぶらぶらしていると、自分のクラスに槙原がぽつんと残っているのを見つけた。教室前方の入り口付近にいる季子に背を向けるかたちで窓の方を見ている姿は、夕方のオレンジの光を浴びたたっぷりとした髪もてつだってか、やたらと絵になる。
 特に迷うこともなく、おおい、と声をかけて近付いていった。振り向いた槙原は途端に面倒くさそうな表情を浮かべる。そんなに顔しなくてもいいじゃん、と思いつつ笑顔を作ったあと、なんで残ってるの、尋ねた。なんとなく答えも予想できる。案の定槙原は、別に、と応じるだけだった。季子はいつも通り後ろに腰かけると、まあまあ、そう言わずに、と絡んだ。槙原の眉間に皺が寄ったけど気付かないふりをして、あたしはさぁ、なんて聞かれてもないのに自分のことを話していく。槙原はやっぱり迷惑そうに、それでいて追い払うでもなく、そう、だとか、へぇ、だとか相槌を打ったり打たなかったりした。
 退屈な時間が少しずつ少しずつ過ぎ去っていく。それにつれて緩慢ではあるものの日が沈みつつあった。季子も喋り疲れて、そろそろ帰ろうかと思いはじめていた時、依然として窓の外を見つめる槙原の横顔に後ろ髪を引かれる。日陰に入ることによってより闇を深くした毛の間から、ちらりとのぞいた白い左の首筋。何を映しているのかわからない目。そんなものがぽつんとある。
「なにを見てるの」
 申し訳程度に尋ねる。返ってこないと思っていた答えは、校庭、という装飾のない言葉になった。それはわかってるってば、なんて苦笑いを浮かべる。槙原の左目が季子を封じこめた。
「そっちこそ、なにを見てるの」
 別に何も。そんな模範解答をしそうになって、実際そんな気持ちだったものの、ちょっとした悪戯心が湧き起こる。
「槙原の髪って綺麗だなって」
 おふざけといった風でいて、割と本気の言葉。槙原は少しだけ目を丸くしたあと、窓の外に顔を向ける。
「別に、普通だよ」
「いやいや。自信持っていいよ。あたしが保証するから」
 季子の目に映る横顔。おそらく仏頂面。なぜだか微笑ましくなり、自然と手が伸びた。指先がさらさらに包まれる。露骨に嫌そうな顔をされた。
「暑いんだけど」
「いいじゃん。別に減るもんでもないし」
 傷つけないように注意を払いながらゆっくりと髪を持ちあげる。うなじはやっぱり消えてしまいそうな色をしていた。

 一学期が終わり夏休みが過ぎ、あっという間に新学期になると、すぐに席替えが行われた。季子と槙原の席は離れて、それきり一緒に食事もとらなくなった。
 今の季子の席は真ん中の一番前で槙原は窓際の後ろの方。たまに振り返ってみても仏頂面の槙原がいるだけだった。
 例のごとく古典の時間。相も変わらず眠くなりそうな声を耳にしながら、季子は教師が後ろを向いている間、シャープペンシルをくるくるさせる。目の前には黒板と古典教師の背中。どうにも退屈で手を伸ばしてみる。当然、何もつかむことはない。なんとも言えない物足りなさを覚えるのと同時に、優しく指先を動かしてみるものの、ないものはない。
 そうだよね、と思いながら、古典教師の恰幅のいい体が退くのを待って板書を再開する。頭の中には近いうちに忘れてしまいそうな色がちらちらしていた。

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