神カウンター

ぺらっぺら

年季の入ったアパートの一室。朝から食卓の空気は最悪だった。がしがしと頭をかきながらやもが現れるなりぱるちは避けるように台所へと引っ込む。あくびを噛み殺したやもがいまいましげにテレビに目を向けると、画面内で取材に応じるボクサーがマイクを向けられて金髪をかきあげた。
「やもですか?獲るに足らない相手だ」
寝不足気味の瞳に剣呑な光が宿るのを見透かしたように映像が切り変わり、ニュース番組の司会が映し出されるとやもは抗議の瞳で振り向いた。食卓からは死角になる台所の奥から返事代わりにベーコンの焼ける香りが漂った。油のはぜる音に混じってテレビから天気予報の声が流れ出す。
「日本れっ□うを覆う□□□前線は□□□□を続け、全国的に□□□□る見込みです。□□□□地方は午後から□□。ところにより□□□□を伴い激しく□るでしょう」
ぱるちは生まれつき音を聞きわける能力が心もとなく、雰囲気や文脈からいくつかの推論と取捨選択を繰り返した結果、聞き逃した音を埋めていた。そんなときにお伺いを立てる相手が神様。つまるところ私である。
「ねぇ、神様。今日の天気はなにかな」
雨だね。と、こんな具合である。
「ねぇ、神様。姉さんは怒っているだろうか」
昨晩姉弟はつまらないことで言い合いになり、やもはさんざんぱるちの怠惰をあげ連ねた。部屋が汚いとか洗濯物の畳み方が雑だとかそういうことだ。あまりの剣幕にぱるちはいけないとわかっていながら「八つあたりするなよ!」と反論してしまったのだ。試合の前夜である。

やもはもう出掛ける時間だ。試合は夜だったが、ぱるちはやもが試合の前に長く一人きりで過ごすのを知っている。やもはその間誰とも合わず、何通りもの想定戦を繰り返してカウンターに最適な試合状況が訪れるラウンドを計算するのである。デビュー当時、稲妻のようだと称えられたカウンターを可能としていたのはやもの身動きを読み解く能力だった。肩や腰に現れる関節と筋肉の連動から重心の移動方向を予知し、重心が落ちてくる位置と瞬間とを先読みする。そこに一撃を見舞うと対戦相手はいとも簡単に崩れ落ちた。好機をひたすら待ち続け、避けて耐えてよろめきながらぎりぎり一杯持ちこたえるやもの姿ははじめのうちこそ判官びいきの国民性にえらくウケたし、ここぞとばかりとどめを刺しに来る対戦相手を逆転の一閃で迎え撃つさまは多くの観客を沸かせた。しかしやもがカウンター以外の戦法を取らないことが界隈で知れ渡るようになると試合は一方的に殴られた上で頼みの綱のカウンターをも狙い撃たれるという悲惨なものになっていった。繰り返される無様な闘いに観客は愛想を尽かし、やがてやもを卑怯者呼ばわりする者すら現れた。世間に呼応するように雑誌も興行主も所属するジムでさえ、やものことを対戦相手の「噛ませ犬」のように扱った。やもはジムをやめ一人で闘う道を選んだ。そうしてぱるちだけが残った。

ガシャリ。何か回転するものが噛み合って止まる重たい音がするとテレビの横にいつの間にか置物があらわれていた。十角形の輪状の金属が四つ並んでおり、四桁の数字を表す機能を備えていることが伺える。その置物が「0001」の数字をあらわしていることを確認してぱるちはコンロの火を止めた。湯気をたててベーコンエッグが焼きあがる。皿にレタスとミニトマトを盛り付けてぱるちは続けた。
「姉さん。今日はカウンターやめてみたら?」
テーブルのマグカップに用意してあった白湯に口をつけようとしていたやもは一瞬手をとめ、何事も無かったように白湯をすすった。ふらりと立ち上がると寝室へ向かう。その日やもが部屋から出てくることは無く、試合は不戦敗となった。やもはぱるちの前から姿を消してしまった。

ガシャリ。テレビの横にいつの間にか置物があらわれていた。置物が「0002」の数字をあらわしていることを確認してぱるちはコンロの火を止めた。
「姉さん。昨日はごめん」
マグカップに用意してあった白湯に口をつけようとしていたやもは一瞬手をとめ、中身を吹き冷まして飲んだ。ふらりと立ち上がると玄関へ向かう。後を追ったぱるちの「朝ごはんは」という声を遮るように玄関の扉が閉まった。
試合は呆気なく終わった。まるで闘う意思が無いかのように振る舞うやもに業を煮やした対戦相手が審判に抗議した。やもには退場が言い渡された。
「ボクシングはやめる。もうあんたに迷惑かけない」
翌朝、食卓の上の書置きを残してやもの姿は消えていた。

ガシャリ。置物は「0003」の数字をあらわしている。
「ねぇ、神様。……僕はどうしたらいいかな」
それからぱるちは何通りもの方法を試みた。頑張ってと言ってみた。負けないでと言ってみた。勇気を出してと言ってみた。見ているからと言ってみた。応援してると言ってみた。負けたら許さないと言ってみた。大丈夫だからと言ってみた。何にも心配要らないと言ってみた。待ってるからと言ってみた。無言で見送ってみた。サムズアップをしてみた。

ガシャリ。数字が4桁に達した。姉も姉だが弟もよほどのカウンター狂いである。しかし試合に敗れたやもがぱるちの前から姿を消す結果に変化のきざしがない。
「姉さんはもうボクシングをやる気が無いのかな……」
闘うことに意味を見出せなくなってるのかもな。
「なんだよそれ。……だったら僕は好きにする」
ぱるちはテレビの横に置物が無いことを確認し「僕は悪くない」と呟いてコンロの火を止めた。皿にレタスとミニトマトを盛り付け、ベーコンエッグを乗せて食卓へ運ぶ。食器どうしがぶつかりあう音だけが響き、姉弟は終始無言で朝食を終えた。玄関で靴紐に緩みが無いことを確認したやもは、少し大きめに息を吐いて外に出た。ふいに姉さんと呼び止められて、振り向くとぱるちが立っていた。思いつめた表情に気圧されたようにやもはショルダーバッグを地面に置いて身構える。かぶりつくように懐に飛び込んできたぱるちの全体重をやもはかろうじて抱き止めた。筋肉質ではあるが細身の姉の身体をぱるちは必死になってかき抱いた。
「大好きだから」
言ってしまってぱるちは眉をひそめた。直後突き飛ばすように姉から体を離し慌てたように顔を背けた。玄関に逃げ込み扉を閉めると頭を抱えてその場にうずくまった。
「なんだこれ。神様、なにかしたでしょ……」
果たしてやもは3ラウンドKOでまさかの大金星を飾った。カウンター一閃。被弾少ないとは言えない試合内容に目の上を腫らして帰宅したやもはチャイムでぱるちを玄関口に呼び出すと、ショルダーバッグを下ろして身構える。
「もう一回やってよ。今朝の」
「い、いやだよ」
そっぽを向くぱるち。ファイティングポーズを解いたやもは横から覗き込んで怪訝そうに眉を潜める。
「なに照れてんの?」
「照れてな」
「あんた今朝のあれ、心にもないことをしたでしょ」
「え……」
「すごかった」
やもにしては珍しく興奮した口調で早口にまくしたてる。
「まさかまっすぐ突っ込んでくると思ってなかったから重心移動が疎かになってたの。それであんたを抱き止めた時わかったんだ。あたし完全に無防備になってた。重心が崩れた人間は無意識にそれを元に戻そうとする。そこを狙えば良いんだって。重心が落ちてくるところじゃなくて、戻ろうとするところを狙えばよかったんだよ。好機を待つばかりだったのが良くなかったんだ。仕掛けて相手の重心を引っ掻き回してやるってことをもっとやってやればよかった。私に足りなかったのは相手に仕掛けて隙を作るってことだったんだよ」
「……へぇー」
呆れ果てた表情でぱるちは玄関に向かう。
「あれ、なんか反応薄くない」
「……今晩のおかずは少し濃いめに味を付けてあげるよ」
「そうじゃなくてね。これって凄い発見だと思わない?」
「そうだね凄いね。さすが姉さんはカウンターの天才だ」
「あ、ちょっと。馬鹿にしてるでしょ」
「そんなまさかさ姉さん。僕はただ呆れてるだけだよ」
どうだいぱるち。神は役に立ったかな?

感想を投稿する
ログインする※ログインしなくてもコメントできます!
コメントするときにログインしていると、マイページから自分が付けたコメントの一覧を閲覧することができます。

名前は省略可。省略した場合は「匿名希望」になります。

感想の投稿には利用規約への同意が必要です。