Fly Me To The Moon

ザ・南京豆

 凍えた闇が盈月を研いだか、面の痘痕が見当たらぬ。そんなことがあるものかよと刮目すれば、それを嘲笑うように、白い影がぴょんとよぎった。
 まただ。
 数日に一度だったものが近頃は毎日と、回数が増えていた。然りとて痛くも痒くもなく、日中は明るさのせいか煩わしいと感じたことはなかった。よもや大病の兆しとも思えず、ならば処置を急ぐことはあるまいと不安の兆しを一蹴する。終電車に揺られて三十分余、共に下車した数人が脇道に出会う度一人減り二人減り、疏らな街灯が底深い闇を点々と照らす遊歩道に差しかかるころには、歯切れの悪い靴音が一つ響くのみ。長い一週間がやっと終わって、疲労が思考を拒絶する。ところが。
 もし、其処な方。
 渋い声に古風な呼びかけだった。暗がりに白い布が蹲っている。喋ったからには人間であろうが、布ごしの形状は体高一米突あまりの、いずれ四足歩行の獣に近い。考えるより先に、急いでますのでと背を向けるも、老婦人めいた枯ら声はなおも追い縋った。
 兎を探しております。
 緩い坂道を全速力でかけ登っても引き離せず、息を切らして立ち止まった。対して、枯ら声とその姿をすっぽり覆った布に乱れはない。
 兎を探しているのです。タマと言います。
 都心から外れていても住宅地のど真ん中に兎が彷徨いていれば、さすがに人の目に立とう。警察に届け出ては如何か。目撃情報があるやも、またはすでに保護されているかも。息切れと事の得体の知れなさに澱みよどみ伝えた。
 気配を感じました。この近くに居るはずなのです。
 これはいよいよ手に負えない。会話をしてしまったのが間違いであったと悔いた。兎は見ていない。今夜に限らず生きた兎を直接見たのは、小学生のおり学校で飼育されていたのが最後なれば、これにて御免。
 では蟹は。もしくは驢馬……鰐ということも。
 蟹はともかくあとの二つは間違いなく通報案件である。そもそも探しているのは兎だったのではないのか。
 見る人によって、見え方が変わるようでして……。
 思わず嘆息する。狐狸にでも化かされているのだろうか。空を仰げば夜を穿つ円鏡の、痘痕のないつるりとした面が見おろしている。と、白い影がぴょんとよぎった。またと思う間もなく白布がばさり舞い上がり、巨大な蝦蟇が現れた。
 其処じゃぁぁあ!
 枯ら声は叫ぶやいなや、まばたきを掻い潜る一舐めをくり出した。冷たく粘っこい衝撃に、目からころりん長い耳とつぶらな目、ふかふかの毛皮は晴天に輝く雪原の、生きた兎がこぼれ出た。腰が抜けた。
 おおタマよ探したぞ、無事で何よりじゃ、みな心配しておる、さあさ帰ろうぞ。兎を丸呑みにせん勢いで気色ばんでいた蝦蟇は一転、再会を喜びその枯ら声で優しげに語りかけた。ところが兎は、全身を戦慄かせながら強情をはった。何故といって、月の御殿に住まう貴人達すべてが食す餅を賄うため、兎は毎日餅を搗いて搗いて搗いて、近頃は三度の飯もそこそこに、半ば寝ながら搗くことすらあったのだという。だが貴人たちはそんな苦労を余所に、平然と食べ残した。
 もう厭でございます、身を粉にして餅を搗き、それを捨てるのは悲しゅうございます。兎がよよと泣き崩れる。
 身につまされた。巨大蝦蟇の足下で泣き伏す兎という、この世のものとは思えない光景がキラキラと翳んだ。救いは蝦蟇がそれほど非道な上司もとい主人ではないらしく、済まぬ済まぬと兎に謝ったことだ。皆にはよく言って聞かせる、膳部の手も増やすゆえ。蝦蟇が誠心こめて説得するのでやがて兎は泣き止み、実は下るは易くも上るは難く、自力での帰還叶わず往生していた由白状し、共に帰ることを承諾した。そして道端に尻をつき洟を啜る人間にはじめて向き直ると、どこからか取り出した真珠色の布包みを差し出した。
 短い間でしたがお世話になりました。うっかりあなた様の目に飛び込んでしまいましたところ居心地よく、つい居座ってしまいました。まるで我が心中を察するかのように、ときどき月を見上げてくださいましたのも嬉しゅうございました。これはほんのお礼です。つぶらな目が受け取れとばかり凝と見上げた。中を検めてみると、直径一糎ほどの黒く丸い物体が三粒あった。
 兎と手元を交互に見やれば、違いますよと兎。後を引き取って蝦蟇が、それは月の仙薬にて一粒服めば病不知、二粒服めば老不知、三粒すべて服めば不死の身となり月の住人としてお迎えいたしますると一礼した。蝦蟇なだけにもはや平伏する恰好で、人外の輩といえどもさすがに恐縮し、居住まい正してこちらも低頭す。
 ではまた何時れ。
 蝦蟇は投げ捨てた白布をふたたび被いて一匹の巨大な蛾に変化すると、兎を背に飛び去って行った。道路に端座して見守る頭の中では、小さな小さな双子姉妹の美しいハーモニーが鳴っていた。

 それから半年。
 晩春の青々とした風を室内に呼び入れて、昼日中から冷えたビールを飲むのは格別の心地であった。傍らでは白兎が生野菜を夢中で食べている。名はタマと言い、もちろん月の兎のタマとは別の、地球上で万人に愛されているふつうの兎である。あの奇天烈な出来事で兎の愛らしさに目覚めてしまい、その後インターネットで動画を閲覧し続けたが、やがて映像だけではもの足りなくなったのだ。
 この半年間はタマだけが心の支えだった。しかし今やその尊さを以てしても、ハラスメントのオールラウンダーたる上司の毒素を浄化しきれなくなってきた。
 目の前の座卓では、例の怪しい丸薬が小刻みに震えている。すぐ横に伏せた携帯端末が、またぞろ癇癪を起こし始めたせいだ。当時は到底服む気になれず、捨てるのも憚られ蔵いこんだまま記憶に蓋した月の仙薬が、満を持したが如く十三連勤目の今日の今朝、マグカップを取り出した勢みに戸棚から落ちて来た。これは何かの巡り合わせか、はたまたお告げか。とりあえずコーヒーはやめてベッドへ戻り二度寝した。無断欠勤万歳。
 昼前にすっきりと目覚めたあとは、シャワーを使い食料品を買いに出かけて腹拵えも済ませ、冴えた頭で冷静に今後のことを考えた。ビールは我が決意への祝杯だ。唯一気懸かりは愛兎タマのこと。一緒に連れて行ってもらえるよう頼むつもりだが、月は生身の兎に耐えられる環境だろうか。
 もしタマを連れて行けないようであれば残留する。これは二つ目の決意だ。
 大丈夫だよ。おまえを置いて行ったりしないから。一心に小松菜を囓るタマにささやいて、三粒の仙薬をビールで流し込んだ。

 どうも遅くなりました。おや、まだ話せませんか。
 その声に意識を失っていたと知り、身体を起こそうとしたが起こせず声は出ず、おまけに何故か頭から布を被っていて何も見えなかった。
 変化に馴染めばじき声は戻りますゆえ、案ずるに及びませぬ。では参りましょう。聞き違えようのないあの枯ら声が促すと、二つの足音が開け放したままの窓の方へと跳ね進み、次いで大きな羽ばたきの音が起こった。
 待て待てとのたうち回って、何とか布から這い出し床を蹴った。勢いづいて思った以上に力強く、ぴょーんと身体が宙空に舞う。高々と軽々と、天井すれすれまで跳躍してなお着地は難なく、それをやってのけたる己が手足を見おろせば、夜を和らげる月光に白々と映える雪白の毛並み。縮んだ身体は精一杯伸び上がって、やっと座卓に手が届く有様だ。自失寸前、耳をぴんと立ててどうにか踏みとどまり窓辺へかけ寄った。
 雨気を孕んだ涼風に撫でられたか、薄雲の向こうから顔を覗かせた虧月は暈をまとって艶めかしい。その尊顔目指し燐光引いて飛翔する一匹の蛾はすでに遠く、夜の波間へ消えんとしていた。

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