アンビバレンツ

asa

 私にはどうしても好きになれない男がいる。要領が良く、なんとなく穏やかな表情でごまかしながら決して本心を出さずに、世間の波に乗っていく。持たざる者の嫉妬、と言われれば否定はできない。でも、不器用にぶつかったりもがいたりしながら生きてきて、何とか最近生き方が分かってきた私からすれば、学生時代から自分の思うようにことを進めて生きていく彼は憎くて仕方なかった。
 彼、七浦に対する周りからの評価は私のそれとは全然違う。人当たりが良く、穏やかで、スマートな、そういったもの。そんな言葉たちを私は心の中で半笑いを浮かべながら聞き流していた。でも、1人だけ、そういうときにこっそり目配せし合って苦笑いができる相手がいた。
 飯田貴久。飯田だけは七浦に対して私と同じ評価を抱いていた。むしろ私よりも歯に衣着せぬものいいで七浦を批判した。時には、正面から七浦とぶつかることもあった。
 けれど、サークルで幹部を務める代になったときには流石の飯田も私も、その気持ちを引っ込めてサークル運営に協力したものだ。七浦に意味なく反発することは控えたし、意見や協力を求められれば応じた。
 それすら、七浦は裏切った。外部団体との交渉での出来事だ。表向きは苦渋の選択だったという、けれど、それまで何度も話合いを重ね段取りを考えていたことを七浦の判断だけで覆すのは、裏切り以外の何物でもなかった。そして、私は、飯田は、七浦を心の底から嫌うようになった。
 …それも昔のことだから水に流して、と七浦は思っているのだろうか。テーブルの向こうでティーカップを口に運ぶ七浦の顔を盗み見るが、何も読み取れなかった。穏やかな表情。おおかたいつもの仮面を被っているのだろう。
 ガラスに和らげられた、明るい光が差し込むホテルのラウンジは、七浦ですら違和感がある。飯田なんて更にだ。隣でホットコーヒーをすする飯田は、風景の中に全く調和していなかった。
 話題は、七浦の結婚のことだった。大学卒業後、私と彼との個人的なやり取りは皆無だった。サークルまとめての連絡事項に返信することはあったが、それも必要最低限。もう関わらない存在と決めていた。そうして数年が経った。新しい人間関係の中で生きる私にとって七浦は完全にただの過去だった。しかも、なかった類の過去、だ。
 だから、七浦が結婚しようがしまいが最早どうでもよかった。相手が私も知る後輩の女の子と分かっても、その子に対してああかわいそうに、と思うだけだ。昔の私なら、結婚が失敗すればいい、と積極的に考えたかもしれないけれど。七浦の輝かしい未来を呪い、どこかで大きな挫折をすればいいと念じていたから。
 けれど飯田は私とは違うようだった。飯田は、卒業後も疎遠にならない頻度で七浦と会っていたらしい。しかもけっこう個人的に。2人で飲みに行くこともあった、と聞いて、私は心底びっくりした。
 今日のこのお茶会も、飯田発信で集まったものだった。私も飯田とは会っていた。でも飯田が七浦とも会っていたのは聞いていなかった。そのことを私に言わなかった理由を問う暇もなく、七浦の結婚を知らされた。そして飯田の意図を察しかねるまま、私はここに座っている。
 ティーポットからお茶を注ぐ。この3人じゃ話題が膨らむわけもなく、さっきから沈黙が続いている。私は七浦に話すことがない。飯田はよく分からない。七浦も自分から話すタイプではない。でもいつも聞き耳だけは立てていて、人の情報にはやたら敏かったものだ。
 こんなことばかり覚えている。自嘲の笑いを喉の奥に殺して、紅茶を飲んで紛らわそうとしたところに、七浦が口を開いた。
「…サークルの皆を、二次会に誘おうと思ってるんだけど」
流石に面と向かって無視するほど子どもではいられない私は、目線を七浦に返す。それで?
 七浦は最近発売されたばかりのスマートフォンで確認してから、予定している日付と時間、場所を私たちに告げた。
「飯田と、浜も来てくれると嬉しい」
 いけしゃあしゃあと言う。私がこの場に来て、会話をしているということで、私はもう彼を許したと、そう思っているのだろうか?
「私、その日予定があるから行かない」
予定があるのは本当だ。ただ単に『行かない』と告げても良かったのだけど、悔しくて行かないと思われるのもしゃくだった。既に、ついさっきの考えと矛盾する私がいる。
 「そっか…飯田は考えといてくれるか?」
一瞬、目を伏せて、今度は飯田に問う。
 それまでほとんどしゃべらなかった飯田は、七浦の問いを受けて、ソファに深く腰かけ、少しだけ考えるそぶりを見せた。
「俺もいいや。そういう、おめでたい席はな」
答えた飯田は、これまでと違う雰囲気をまとっていた。飯田の周りだけ空気が淀んだようだ。まばたきをしてもそれは消えない。胸の奥がざわざわする。
 飯田の言葉の使い方に、またはその雰囲気に、七浦は少しだけ不審そうに頷いた。不安げで、警戒するような顔つき。危険には敏感ですものね。特に自分が傷つくことには。
「深咲」
飯田が私の名前を呼んだ。今日初めてだ。
「なに?」
「お前、この前聞いたろ。どうして俺が七浦と連絡とってんだ、て」
 私が聞きたかったのは、正確にはそこではないが、私はとりあえず頷いた。
「見張ってたんだよ」
あごをくいと上げ、見下すような目線を投げる。
「七浦が、いつ不幸になるかって」
 その瞬間。
ほんの一瞬、七浦は目を見開いた。
驚愕したように口をほんの少し開き、しかし閉じる。
次の刹那にはもう、いつもの七浦だった。
…飯田はちゃんと捕らえただろうか?
 「けど、なかなかなんねーのな。てめぇと話合わせるのにも飽きてきたから」
言って、飯田は突然立ち上がった。重々しく、ゆっくり。
パンツの後ろポケットから何か小さいものを取り出し、その中から1枚をテーブルに放る。
「今後は困ったときに連絡してこいよ。浮気の示談とか、離婚調停とか」
言って、本当の意味で七浦を見下す。見つめ返す七浦の瞳は、一見、静かだ。
 そして、テーブルの上の伝票を掴むと、さっさとその場を立ち去ってしまった。
 残された私は、彼の背中を見送ってから、顔を戻す。放られた名刺。『弁護士 飯田貴久』。それから、ことさらゆっくりと七浦を見る。
 七浦は、さも動揺などしていなかったかのように、私と目を合わせた。それから、苦笑して見せる。
「まぁ、あの飯田だから、なんかあるかな、とは思ってたけど」
そして、言うのだ。
 そういうところが本当に気に食わない。
飯田の言葉に、本当は驚いたくせに。一瞬だけ、表情を崩したくせに。飯田の憎悪に、実は気づいていたふりをする。自分が騙されたことを認めない。自分が傷ついたことを、認めない。七浦のそういうところが、本当に、嫌いだ。
 「そう」
けれど私はそれだけ言って、食べかけだったミルフィーユをフォークで切り崩した。
かつん、とフォークが皿に当たる。
 私は、卒業後、七浦のことはどうでもよくなっていった。
けれど、飯田は違った。演技をしてでも七浦を追い続け、挫折する瞬間を拝もうとした。
その執着。痛々しいほどの。
マザー・テレサの有名な言葉を、七浦に教えてあげようか?
 「七浦、あのさ」
私は飯田とは卒業後も会っていた。でもそれはいつも、私から、だった。
「私、もう、『浜』じゃないんだ」
口を開いた私から出たのは、全く別のことだった。あいにく、私はそれほど優しくない。
「結婚したの。今は『古賀深咲』」
私が望んで得られなかったものを、七浦は違う形でずっと持っている。これからも持ち続ける。
 私は、全てを忘れて過去のことにするしか、ないのだ。

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