カフェにて

ムラサキハルカ

 真昼の薄暗いカフェ内。食事を終えた戸賀は、隣の席に女がぼんやりとした様子で座っているのを見つけた。長い茶髪の色白な女は、白いひらひらとした服に同色のスカートを合わせている。その目の前には薄緑色の酒らしきものが注がれたグラスが置かれていた。
 女の年頃は大学生くらいに見える。もしかしたら、未成年かもしれないが、だとすればこの漂ってくるアルコールの薫りとは合わない気がした。戸賀が横目でちらちらと窺っている最中も、女は薄緑色の液体が入ったグラスを見つめながら微動だにしない。もしかしたら、目を開けたまま眠っているのかもしれないと疑いもしたが、時折、挟まれる瞬きがその可能性をやんわりと否定する。
 この女はなにをしに来たのだろう。膨らんだ疑問は必然とも言えた。とはいえ、この問いの立て方的な答えを用意すれば、カフェに酒を飲みに来た、という現象面でのものになってしまう。ならば、いま一度、問いの立て方を変える必要があった。すなわち、この女がなぜカフェに酒を飲みに来ているのかの、なぜ、の部分に焦点を当てるべきなのだろう。しかし、しかしながら、この、なぜ、を導きだすのは極めて難しい。もっとも、簡単なのは本人に尋ねてみることだろうが、三十路一歩手前の男が若い女にいきなり声をかけるとなれば、相手から胡乱な目で見られることを覚悟しなくてはならなかった。いや、この考え自体が自意識過剰でしかなくて、女は案外、気前よく酒を眺めている理由を答えてくれるかもしれない。だが、その場合においても真実が口にされる保証はどこにもないだろう。その上、戸賀と女は初対面であるのだから、発言の真意を読むことも難しい。
 情報を整理する必要がある、と戸賀は思う。最終的には女自身に尋ねるにしても、今はまだその段階ではない。なによりも戸賀の中に、この女のことを自らの頭で考えてみたいという欲求が湧きあがってきていた。
 まず、場所。感じの良さ気な中年男性店主が切り盛りするカフェ。昼間であるにもかかわらずやや薄暗く、吊るされた丸い電灯からテーブルに向かって明かりが差している。たまに女性バイトがせかせか働いていることもあるが今日はおらず、ついでに普段であればぽつぽつといる客も戸賀以外いない。店主的には不本意かもしれないが、この人の少なさを戸賀は気に入っている。コーヒーは可もなく不可もなく。否、戸賀の舌が肥えてないだけかもしれないが、感想としてはそんなところに落ちつく。ランチはなかなかお得。特に今日、振舞われているクラブサンドウィッチは量も多く、ベーコンも分厚いため、特に好みのメニューだった。とはいえ、女は薄緑の液体を眺めているばかりで、ランチを口にしたようにも見えないが。話を戻す。そして、このカフェ、昼からでも頼めば酒が出てきた。戸賀もメニュー表の端にアルコールが載っているのには気付いてはいたが、この店をほぼ昼食専用にしていたため、頼んだことは一度もない。ごくまれに、酒盛りをしている中年女性の集まりや大学生カップルを見かけて、いいご身分だなぁ、なんて感想を抱いたりもしたが、女一人で酒を頼んでいる現場を見るというのは初めてだった。
 次は女自身。ぼんやりとした顔。生来のものであるか、何らかの原因で感情が失われてしまっているのかは判断がつきかねるが無表情に近い。その視線は、やはり薄緑色の酒が入ったグラスに向けられているように見える。グラスの横には些か奇妙な形をしたスプーンが置かれていた。
 と言った感じで、おおいに見落としはあるだろうが、戸賀が見て気付くのはこのくらい。あとは、想像の翼を広げるだけだ。
 安易に考えるならば、女は酒の力に頼りたいのだろう。真昼に一人、というやや特異な状況を解きほぐすのはそれくらいの答えがちょうど良さそうだった。むろん、ただ単に女が昼に酒を飲む趣味というだけかもしれないが、一旦、その可能性は置いておき、酒の力に頼りたかった、という線で考えてみる。酒に頼りたい状況でありがちな理由はといえば、忘れてしまいたいことがあった、というもの。では、女はなにを忘れたかったのか。大事なものを落とした、学校や職場での失敗、恋人とのもめごと及び別れ、家族の不幸。ぱっと思いつくのはこんなところか。仮に、前述した女の表情が生来のものでなく、戸賀が仮定した忘れたい事柄に由来するのであれば、それなり以上に大きな出来事がふさわしいだろう。
 ちらりと女の方を窺う。無表情の中に薄っすらとした憂いを発見した気がした。では、その憂いの元とはいったい。女のことを何にも知らない戸賀は、本日の雰囲気によってそれっぽい話を作りだしていく。
 女がいつからいたのかははっきりしないが、開店直後からいたと言われても驚きはない。そんな店内で、今は空になっている女の向かいの席に座った男。どことなくぴりぴりとした空気が漂うカフェ内で、男はおもむろに別れを切りだす。女はどう答えただろうか。別れないでくれと懇願したかもしれないし、そう、と短く答えて受けいれたかもしれないし、あるいはなにも言わなかったかもしれない。とにかく、女と男は別れた。残された女は薄緑色の酒を呆然と眺めたまま今にいたる。
 ぱっと組み立てた妄想は陳腐ではあったが、ひどくこの女に馴染む気がした。となれば残すは答え合わせ。
 冷めた目で見られるかもしれないという不安を抱えつつも、隣の女に、すみません、と声をかける。女はぼんやりとした様子で、はいなんでしょうか、と応じた。戸賀はどのように尋ねればいいのか迷いつつも、結局単刀直入に、あなたはなんでずっと酒を眺めてるんですか、と口にする。そんなの私の勝手です、なんていう脳内返答をしかけた戸賀の前で、女はなぜだか薄っすらと微笑んだ。
 あなたも見ますか。そんな風に尋ねられ、なんのことだかもわからない戸賀を女は子供じみた顔をしたまま手招きをする。戸賀は首を捻ったあと、示されるままグラスの中を覗きこんだ。
 薄緑がかった水面の上には淡い光のまん丸が浮かんでいる。視線を上に逸らせば、薄暗い部屋の中で照明がグラスの中に模様を作っているらしかった。
 どうですか、満月みたいで綺麗でしょ。どこか誇らしげに目を細める女の顔。もしかしたら、未成年かもしれない、という推測は当たっているのではないのかと戸賀は疑いつつ、ずっとこれを見ていたんですか、と問いかければ、はい、という元気な声が返ってきた。がらがらと頭の中で崩れていく妄想を恥じつつ、たしかに綺麗ですね、とお茶を濁す。実のところ、そこまで綺麗だろうかという気持ちだったので、この月を眺めるためだけに頼んだんですか、なんて言葉が零れた。女は、まさか、と答えたあと、ここに満月が映りこんでいるのをみつけちゃって、ついつい見惚れてしまっていたんです、なんて恥ずかしげに言ってみせる。戸賀は自分が女と同じように緑色の液体の上に映る丸を発見した場合を想定してみるが、この女のようにずっと見つめ続けはしないだろうと結論付ける。色んな感じ方をする人間がいるんだなと他人事のように思った。
 程なくして、戸賀の前に食後のコーヒーが届く。やってきた店主に礼を口にしたあと、すぐさま口につけた。女が楽しげな顔を店主に向ける。
 ヤスシさんも一緒にしませんか、お月見。暇そうに見えるかもしれないけど、これでもやることはあるんだよ。今日は、そんなに仕事がなさそうですけど、なんならお手伝いしましょうか、いち早くバイトに復帰するってことで。今は体を大事にした方がいいだろう。それは、ありがとうございます、でもだったらお酒を出したのは色々まずかったんじゃないですか。いや、君が飲みたいって押し切ったんでしょ。ヤスシさんのことを誰よりも知っているから、私の気が済んだら飲んでくれると思って頼んだんですよ。あのね、ミキ、親しき仲にも礼儀ありって言う言葉知ってる。ヤスシさんにしかしませんよ、こんなわがまま。
 親しげな会話を耳にしながら、思いのほか早くコーヒーを飲み終えてしまう。邪魔するのも気が引けて、声をかけあぐねていると、女性が、良かったらこれ飲みます、なんて話しかけてきた。困惑する戸賀の前で、女は店主の顔を指差し、この人、根性なしだから代わりにどうですか、なんて言ってくる。戸賀はこれからの仕事を頭に浮かべて断ろうとするものの、なんとなくむっとする店主の顔を眺めたあと、店主と同じように笑われるのもどうかと思い、では一口だけ、と断りを入れて手にとる。想像よりも強い酒の薫りに、すぐさま失敗だったと察しつつも今更やめるわけにもいかず、ゆっくりとグラスを傾けた。薬草臭さと砂糖の味を舌の先で味わったあと、水面を覗きこむと、もう既に月はなくなっている。

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