泡と伯父さん

故・多田燈

 『男はつらいよ お帰り寅さん』の予告編を観て涙ぐんでしまった。劇場で鑑賞したことはないが、小学生の頃から『男はつらいよ』が好きで、高校生の頃までにほぼ全作品を観ていたという過去が私にはある。涙の理由には幼き日の感動が呼び覚まされたという可能性はあるだろう。しかし、予告編でこみ上げた感動には既視感があった。思い出を巡ってみて気づいたのは、小学生の頃『男はつらいよ』に触れた感動と、中学生の時『ブギーポップは笑わない』を読んだ感触が同質のものであるということだ。昭和の国民的映画と、ゼロ年代ラノベの指標とが自分の中で結びつくことは、我ながら不思議な気持ちがあるが、この2つの作品を繋ぐものは何か、ちょっと考えてみようと思う。
 『男はつらいよ』は、テキ屋をやっているフーテン・車寅次郎が主に女性関係で、故郷である柴又と旅先で騒動を巻き起こす物語である。シリーズ全49作を概観すると、物語の構成は2つにわかれる。そのほとんどを寅さんが主人公であるが、終盤の第42作目以降、寅さんを演じる渥美清が病で体が動かなくなってきたこともあり寅次郎の甥っ子である満男を主人公に据えた満男編がはじまる。記憶に残っている限り、私が初めて観た『男はつらいよ』は満男編の初回である「ぼくの伯父さん」である。
 満男編は、旅先や柴又で出会った女性に惚れる寅さん的な騒動ではなく、泉という初恋の女性に対する感情や、社会に出ようという若者の葛藤などモラトリアム的な問題を主眼として扱う。そして寅さんはその中で人生の先輩として満男に接し、満男は旅人としての伯父さんに憧れを抱くようになるのである。
 『男はつらいよ』と『ブギーポップ』シリーズを繋ぐ接点は、モラトリアムという要素と、寅次郎と満男の関係性とに現れていると思う。『ブギーポップ』シリーズが第1作『~笑わない』以来、思春期の不安や悩みを取り込んで展開されていること異論はないであろう。問題はその構造の相似性にある。私が考えるにこの2つの作品の深層にある構造として機能しているのは、東浩紀が『弱いつながり』提起して『ゲンロン0 観光客の哲学』で展開するところの、村人-観光客-旅人、という関係性である。
 東によると「観光客」とは「特定の共同体の身に属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」存在であり、「観光客」であることが「人間が豊かに生き」る在り方とされる(『ゲンロン0』p.14)。ではなぜ「観光客」がより良いものとされるのか。
 『男はつらいよ』に当てはめてみよう。満男は、泉が他の人物と結婚することに耐えられなかったり、靴の営業をする自分に閉塞感を感じたりする。だから結婚式を妨害し(第48作『紅の花』)、仕事を休んで東京を飛び出す(第47作『拝啓寅次郎様』)。つまり社会や常識から飛び出し、村人から逸脱しようとする。だが、そんな満男の前に決まったように伯父さんが現れる。満男は旅人である寅次郎と接し、旅に同行しつつも毎回柴又へ帰ってくる。一瞬旅人へと向かうものの、生粋の旅人である寅さんと係わるうちに観光客として心を落ち着け、村人へと戻っていく。満男は作品ごとに村人→観光客→村人という循環を繰り返すのである。
 注意せねばならないのは、満男が村人へと回帰することができるのは寅次郎が満男の前に現れるからである。結婚式の妨害にみられるように、社会的な事件を生じさせている以上満男は村人に帰還することは本来困難なことであり、旅人へと向かわざるを得ないはずである。しかし、合理主義ではなく感情に素直に生きる伯父さんが満男の前に現れることによって、「ヤクザ」(主題歌)という旅人の一つの形態になりきることもなく「観光客」を経て「村人」へと帰ることができるのだ。
 勿論、満男の精神の循環構造には、寅次郎を間接的な原因として捉えることも出来るだろう。幼い頃から柴又に帰ってきては騒動を巻き起こしては、また旅に出ていく寅次郎の姿を見て育ったということ、それ自体が満男を「観光客」へと引き上げているともいえるだろう。
 つまり寅次郎は、満男が旅人へと向かうのを防ぐストッパーであるとともに、一時「観光客」へと引き上げる存在である。
 同様の関係性は『ブギーポップ』シリーズにも見出すことができる。このシリーズでは、深陽学園がある町に外部から旅人が現れることによって主たる物語が始まるパターンが散見される。マンティコア(『~笑わない』)、スケアクロウ(『夜明け~』)など主に統和機構の合成人間の登場が導入となっている。そして彼ら旅人は村人と接触することにより自発的に、あるいは間接的に「観光客」を生み出す。早乙女正美(『~笑わない』)やフィア・グール(『夜明け~』)がそれにあたる。「観光客」たちは、旅人から常識外れの力を得るものの(旅人的要素)、街に残る道を選ぶ(村人的要素)、という二重性を維持し続けることにより「観光客」として足りえる。
 確かに彼らは力の行使によって「豊かさ」を手に入れている。しかし、ここで興味深いのは、東浩紀によって「人間が豊かに生き」るあり方として提示されたはずの「観光客」が皆、ブギーポップに倒されるべき世界の敵であるということである。これはシリーズ通して重要な世界の敵と位置付けられる水乃星透子(『VSイマジネーター』)も例外ではない。東浩紀の政治哲学と、東が名付けた上遠野サーガとは打ち消し合う関係性にある。少なくとも「観光客」は豊かさと危険性という二面性を有するといえよう。
 さて「観光客」の両義的な在り様を踏まえた上で『男はつらいよ』に立ち返ろう。満男は内外の要因によって「観光客」になり、伯父さんである寅さんとの交流によって村人に回帰するが、「観光客」である状態の満男は村人では味わえない豊かさを得るとともに、世界の敵としての危険性を有していることになるといえる。
 第50作『お帰り寅さん』では村人-観光客-旅人の構図が象徴的に描かれる場面が2つ存在する。主人公である満男は第49作から22年の時を経て泉とは異なる女性と結婚し、中学3年生の娘をもつが、妻と死別したために娘と2人暮らしをする父親として描かれている。その彼の職業は小説家である。
 『ブギーポップ』シリーズにはメインキャラクターである霧間凪の父親・誠一が重要な小説家として位置付けられている。霧間誠一は、世界の敵ではないが自らを社会の敵と自称し、世界の敵である水乃星透子や、次期アクシズと目される末間和子に影響を与えた人物として描かれ、最終的に統和機構に危険因子として殺害される。世界の敵=「観光客」を目覚めさせることができたことから、逆説的に誠一は旅人であるといえる。同時に、小説家という職業は定住者でありながら旅人に属する職業であるといえよう。つまり、『お帰り寅さん』における満男は旅人に属する存在なのである。
 『お帰り寅さん』の物語は、満男がサイン会で泉と再会することから動き出す。泉は満男と別の道を歩み、海外で家庭を持ち、国連難民高等弁務官事務所のスタッフとして働いている。仕事の関係で一時的に帰国していた泉は、休みを活かして母親と離婚した余命幾ばくもない父親がいる介護施設へ向かう。満男は、今生の別れともなるかもしれない父親との再会を躊躇う泉に同行する。満男は僅か数日ではあるが泉との再会を通じて、再婚を求められる現状と、途切れていた初恋の相手への感情とに、伯父さんの姿を回顧しながら整理をつける。泉を見送った満男に対して娘のユリは「お帰りなさい」と声をかける。彼女は満男が「ここ数日どこか遠くに行っていたような気がする」というのである。満男は仕事をほっぽりだして泉と共に過ごした数日の間「観光客」になっていたのである。
 満男の心境の整理と、娘ユリが感じた満男の不在性とは、大人がモラトリアムへ回帰することへの1つの可能性を提示しているといえないだろうか。ブギーポップには急進性を危険視する保守性をうかがうことができるが、村人か旅人のいずれかに立ち返らせようとする山田洋次の脚本も「観光客」であることを避けるという意味では上遠野公平と同質である。2人の創造主は急進性を排したモラトリアムを利用することを肯定しているといえよう。
 私が少年期に惹きつけられたのは、山田洋次と上遠野公平が漠然とした未来に照射する可能性だったのだろう。そして予告編から受けた感動は、モラトリアムへの回帰であると共に、記憶の深奥に埋め込まれたメッセージを浮上させるキーであったわけだ。ならば、この可能性をさらに育てることこそ彼等への恩返しなのだと思いたい。(文学研究の糧があったからこそ、気づけたのだから。)

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