満ち足りること

ムラサキハルカ

 物心が付いた時から千絵は満月に魅入られていた。夜、窓辺にいる時、なんとはなしに見上げるとそこにはまん丸い月が浮かんでいる。そして、ぼんやりじっと見上げているうちに時間は過ぎていき、どことなく余所余所しい父か母に声をかけられて我に返る。そんなことが何度もあった。何度もあったのに、一向にその癖は直らない。たぶん、直す気がなかった。

「お前って、満月が好きなんだな」
 ある夕方、遊び仲間の友晴にそう尋ねられて答えに困る。近所の子供たちといつもより遅くまで遊んでしまい、これじゃお父さんとお母さんに悲しい顔をさせてしまうな、と考えている最中、たまたま目に入った満月に例のごとく魅入られ、結果としてこの癖が一人だけ残っていた友晴に知れてしまった。とはいえ、好きという言い回しがどうにもピンと来ず、かといって、積極的に否定する気にもなれず「そうなのかな」とどことなくぼけた答えを返してしまう。友晴は、いやお前のことだろ、と呆れ顔を浮かべたあと「たしかにきれいだもんな」と付け加えた。千絵もまた「うん」と応じはしたものの、本当にそう思っているのか心もとなくなってくる。アスファルトを踏みながらあらためて見上げる丸々と太った月は、たしかにきれいなのかもしれなかったが、なんというか、それ以上のものを感じさせた。まるで向こう側になにかがいるような。
「好きじゃなかったら、そんなに一生懸命見ないだろ」
 友晴の言葉で我に返る。そして、すぐ傍にいる男の子の顔を見ながら、空から目線を逸らしてしまったことを惜しんだ。

 中学・高校と年を経るにつれ、窓越しだけでなく、歩いている途中に満月を目にしてしまう機会が増えた。千絵としても幼い頃ほど見入ってしまうということはなかったし、どこでも立ち止まってしまうなんてこともなかったものの、暇があれば満月に視線を注いだ。それでも時折、周りにいた他人の存在を忘れてしまい、なんとなく入っていた美術部の部員や、一緒に残っていたクラスメート、用務員などの目に留まり、笑われたり、呆れられたり、注意されたりした。千絵もまた、愛想笑いでごまかしたり、照れてみせたり、謝ったりしながらも、いまだに満月の向こうになにかを見ようと食い入るように目を細め続けている。この癖はいまだに両親にも心配されていたものの、なかなか止められなかった。
「ほら」と温かい缶コーヒーをくれる友晴に「ありがとう」と応じて受けとる。高校の学祭準備の帰り道。小中高の腐れ縁。友人は少なくはないものの、ここまで長く続いた相手は珍しい。頭の片隅でそんなことを考えつつも、目の前にはまん丸太った月。今日は雲の間で隠れたり現れたりを繰り返していたものの、その存在感は依然として強いまま、空の上に鎮座している。口から漏れ出した白い息が雲の間にある月の上にかかった。
「早く飲めよ。さすがに風邪引くぞ」
 隣に座る少年の声に頷き、プルタブを引きあげて口をつける。舌先に焼けるような衝撃。「あつ」と思わず声を出した千絵に「ぼんやりしてるからだぞ」と呆れながらも「水買ってくるか」と提案してくる友晴に首を横に振って「いいよ」と答えた。そこまでしてもらうのは気が退けたし、猫舌なのは昔からだ。慎重に飲みながら、雲の間に目線を走らせ続けた。隣で楽しげな溜め息が耳に入ってきたように思えたが、意識はすぐに雲の間から姿をあらわした丸いものに向けられている。

 昼間、千絵は友晴を伴い公園に来ていた。入ったばかりの大学が休みで、なぜだか浮かない顔をしていることが増えた両親がいる家にも居づらく、試しに暇をしていそうな幼馴染みに電話をかければ二つ返事でOK。暇人だなぁ、なんて、人のことを言えない感想を抱きつつも、その付き合いの良さに感謝もしている。そそくさとベンチに座り、スケッチブックに写生をはじめた。隣に座る男の気配を感じつつも、空を見上げる。目線の先にはただただ水色の空と薄らと引かれた雲。綺麗だな、なんて思いつつも、なんとはなしに物足りなさを覚えもする。だから、薄く白い雲の下に、とても見慣れた丸いものの輪郭を書き足していった。きっと横では温かく見守る男がいると思い、なんとなくほっこりする。
 不意に鳴き声が耳に入ってきた。視線を正面に向けると柴犬が粗い息をしながらこちらに近付いてきて、千絵の膝がしらにその顔を押しつけてくる。「大丈夫か」と不安げに尋ねてくる友晴のことを大袈裟だなぁ、なんて思いながら、千絵の目はその赤い首輪に向けられた。 
 幼馴染みはほっと胸を撫で下ろしたあと、「意外に可愛いな」と言いながら手を向けようとするが、すぐさま吠え返される。後ろに飛び退く友晴に、飼い主らしい眼鏡をかけた中年女性が何度も頭を下げていた。そんな騒がしさを尻目に、千絵の視線はやはり赤い輪っかと柴犬の首元に向けられている。そうなっていることがなぜだかとても悲しくてやりきれない。

 ここのところ、充実していると千絵は思う。休日に絵を描いて、眠い目を擦りながら講義を受けて、サークルで馬鹿話をしたり、魚屋さんでのバイトに精を出したり、付き合い始めた友晴とお茶をしたり。すべてとはいえないまでも、なんとなく歯車が良い方良い方に回りだしていた。ただ、千絵はその上に、客観的に見ればなんていう但し書きをつけたくなってしまう。自分でもおかしいと思いつつも、つけたくなってしまう。どことなくふわふわとした心地の中でまどろんでいる感じ。どうにも足元が覚束ない。なにかが違う。そんな漠然とした心地。こうして実家のベランダから満月を見上げていても、より強くそんな心を意識してしまう。先日両親に、養子だと知らされたせいかとも考えてみるが、それに関しては驚くほどすっきりと受け止めてしまっていたからたぶん違う。
「今度の日曜日はどこ行こうか。行きたいとこあるか」
「私は友晴が選んでくれるならなんでもいいよ」
 優しい声を心がけて通話しながら、楽しみだなという気持ちと、どうでもいいという気持ちが交錯していた。どこからか遠吠えのようなものを聞こえる気がする。

 足元のおぼつかないような感覚は社会人になったあと、つまり今日まで続いている。デートの帰り際、友晴にリングを見せられた時もその心は継続していて、考えさせて欲しいという答えに繋がった。冷静に自らの心を解体していけば、受けるのが正しいのだろうと千絵は分析する。千絵は友晴が好きだし、友晴もまた何年間も千絵のことを想ってくれているのは疑いようがない。それでもなんらかの感情が千絵のその判断を遮った。強引に名前をつけるなら、私の居場所はここではない、という気持ち。なんでだろう、という問いかけの答えもわからないまま、送られるのをやんわりと断り、今は夜道を一人で歩いていた。空には例のごとくまん丸い月。もしかしたら、私の本来の相手は満月なのかもしれない、なんて皮肉気に考えたあとも、目を離せない。今日はより一層、そんな気分。
 遠吠え。最近、よく聴く幻聴。おそるおそる目の前に向ければ灰色の犬のようななにか。少し見慣れない感じ。首輪はしていないし、飼い主もいない。それなのに恐怖はなく、唇の端から涎が垂れる。これは歓喜だと気付いた時には舌の先が伸びていた。灰色の獣はこちらを一瞥し、尻尾を向ける。もふもふとした毛の塊の揺れを見ながら、待ってと手をアスファルトにつける。いつの間にか前足は灰色の毛皮に包まれていた。感触からして後ろ足もだろう、と理解してから、体中が毛に覆われているのを理解する。ゆっくりと追いかけはじめた。前を行く獣は遥か彼方。身体にかかる布切れが邪魔で引きちぎる。加速した。少しずつ少しずつ近付いていく。遠吠え。今度は自分のものだった。答えは遠吠えで帰ってくる。嬉しくて嬉しくて仕方がない。
 町から森へ。森から山へ。山の上へ上へと駆け上がっていく最中。遠くの尻尾が揺れるのが愛おしくて愛おしい。どれだけ走っただろうか。辿り着いたのは湖だった。獣が振り向く。長い鼻を甘く噛んだあと、自分の長い鼻を甘噛みされた。この牡こそ、つがいだ。そう確信してから甘噛みを続ける。その際、すぐ傍の湖が目に入る。さざ波の中で満月が静かに揺れるのを見て、なにかを思い出しそうになった気がしたものの、甘噛みの愛おしさにそれどころではなくなった。とてもとても満たされていた。

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