喫茶ねこまた亭の日常

梶木真黒

「へぇ、上弦の月って半月のことなの。あたし三日月だと思ってた」
 美雨の言葉に、目の前に座った男は少し驚いたような顔をしてから、笑い出した。
「ええ〜なんで笑うの。だって、三日月の方が弓っぽいじゃん!」
 美雨が頬を膨らませると、彼は口の端に笑みを残したまま言った。
「そうかい? 半月の方がぴんと弦を張った弓みたいじゃねえか」
「うーん。そう言われればそうかもだけど」
 美雨は尚も、「半月だったかぁ」と未練たらしくボヤきながら描きかけの原稿に消しゴムを当てた。
 すると、まるで消しゴムから逃れようとするかのように絵に描いた三日月が紙を離れ、浮き上がった。
 目の前に浮遊する三センチほどの三日月を眺め、美雨は溜息を吐く。
「まただよ」
 美雨には特別な力があった。
 江戸時代から続く老舗の傘屋が美雨の家である。その何代か前の店主も同じ力を持っていたらしいのだが、とにかく美雨の書いた絵や文字は時々、実体化したり具現化したり喋ったり動いたりするのだ。実に厄介な能力である。
「学校でノート取るのも気が気じゃないんだよ」
 テストの時など書いた筈の答えが歩いて逃げてしまった時には絶望的な気持ちになったほどだ。おかげで美雨の成績はあまりよろしくない。
 向かいの席に座って美雨の愚痴に付き合っている男は、懐かしいものでも見るように目を細めて美雨の話を聞いている。
 整った顔立ちの彼は人懐こい笑みを浮かべた。
 このイケメンにそんな風に微笑まれたら、美雨のクラスメイトなど黄色い声を上げて大騒ぎになるだろうが、残念ながら彼女達には彼が見えない。それどころか、大半の人間には彼の姿は見えていない。
 美雨の頭を撫でる大きな手は温かいのに。
 彼は近くにある神社の若宮である。風の神シナツノヒメカミを祭神とする社の境内には、その御子神であるハヤテヒコノカミを祀った宮も併設されている。彼はその主ハヤテヒコであった。
 美雨は専ら若宮と呼んでいる。
 本名は、なんか呼びにくいので。
 美雨は先祖返りなのか、数代前の先祖の力を受け継いで前述の通りの異能があったり、普通の人には見えないものが見えたりする。若宮は神様の一人で、こうして触れたり話したりもできて実体がないわけでもないのに、普通の人間には彼が認識できないらしい。視界に入っても、その存在を意識できないんだとか。
 なにそのステルス機能。ちょっとズルくない?
 そんな存在いたらスパイとかちょろそう。とか思ったが、どうやら認識出来るかどうかは相手の能力にかかっているらしく、今のところ彼と話せる『人間』は美雨だけらしい。嬉しいような、残念なような。
 折角イケメンの友達ができたのに、誰にも自慢できないのだ。
 尤も認識できないのは人間だけで、彼の膝の上でうたた寝している猫の『おたまさん』は、いつでも寄り添っているし、今いる喫茶店のウェイトレスには二人の遣り取りまでばっちり筒抜けである。
 喫茶『ねこまた亭』は、今日も地元民の常連で賑わっている。そしてその半数は『人間ではないもの』で占められていることを美雨は知っている。
「お美雲も苦労してたなあ」
 そう言って、膝の上の猫を撫でる彼がほんの少し寂しげに見えるのは、気のせいだろうか。
 お美雲というのは、数代前の美雨の祖先らしい。といっても直系ではなく、お美雲の兄の子供を養子にしたのが、美雨の祖先らしい。その養子も美雨と同じ異能を持っていたが為に養子に出されたのだという。若宮はなぜだかその辺の経緯にえらく詳しい。そして、度々彼の話に登場するお美雲も同じ異能を持っていたのだとか。
 初めて会った時の若宮の顔は忘れられない。
 嬉しいようで、それでいてどこか泣きそうにも見える表情だった。美雨の名前が件のお美雲と同じ読み方だったのも彼にそんな顔をさせた原因の一端だったのだろう。
 好き、だったのかな? お美雲さんのこと。
 それはちょっと、切ない。
 美雨は俯き、自分の気持ちを誤魔化すように紙に半月を描き直した。今度は動いたり浮き上がったりはしなかった。美雨の異能は気まぐれもいいところなのだ。しかも、思い通りにいかない。これが旨くいけば札束を具現化して大金持ち! と、いきたいところだが、残念ながら美雨の描いた通りのクオリティにプラスして、手足が生えて踊り出したりする。全く使えない異能である。
「お美雲さんは、この力とどうやって向き合ってたの?」
「そうだなあ……。お美雲の作った番傘はな、独りでに空を飛んで戻ってくるんだ」
「あ〜その話は前にも聞いた」
 昔は雨が降ると店で用意した傘を貸し出していたらしい。無料でレンタルされた傘は、晴れると自動的に空を飛んで帰ってくるのだとか。
「借りパクされなくていいよね」
「ぱく?」
「パクるのパクだよ。盗むってこと」
 若宮は最近の言葉にはちょっと疎い。バージョンアップが昭和で止まっていそうだ。
「ああ、女学生がよく使う言葉だな」
「せめて女子高生って言ってよ」
 もしかしたら昭和初期で止まっているかも知れない。
「あっ、知ってますよ〜。JKって言うんですよね!」
 ウェイトレスが猫耳をぴんと立てながら、笑顔で言った。
「はい、ホットのアイスコーヒーです」
 喫茶店の名物、アツアツのヒエヒエなコーヒーを持ってきたメイド服姿のウェイトレスは、すっかり常連となった美雨達の前で二股に分かれた尻尾を隠しもせずに揺らしている。『ねこまた亭』の名の通り、この喫茶店のマスターも、ウェイトレスも猫又なのだ。ついでに言えば若宮の膝で丸くなっている『おたまさん』は、マスターの師匠らしい。何の師匠なのかはよくわからない。
 美雨は若宮と話をしたい時には、たいていこの店に来ている。若宮と一緒にいるとなぜだか美雨まで認識阻害の影響を受けてしまうらしく、普通のファミレスなんかでは待てど暮らせど注文を取りに来ないという事態になったりするのだ。
 やっぱりスパイし放題では。
 美雨はちょっとだけそんな妄想をしてみるが、若宮の人の良さげな顔を見ていると、いや、無理だな。と脳内会議で否決されるのだった。
 神様だし。そういうのはダメだよね。うん。
 まあ、スパイする宛がまずない。
 美雨はアツアツのヒエヒエを吹いて冷ましながら飲んでいる若宮をチラ見しながら、パンケーキを頬張った。これはタネも仕掛けもないパンケーキである。敢えて言うならサクサクのフワフワだ。
 結局、この日原稿は進まなかった。
 文芸部の友達に頼まれた挿し絵だったのだが、三日月が逃げ出したので、仕方ない。うん。三日月と一緒に美雨のモチベーションも逃げ出したのだ。仕方ない。
 店を出ると、空の上には半月があった。
「美雨。あれが上弦の月だ。綺麗に見えるぞ」
 若宮が指さす先に、銀色の月があった。
「そこは『月が綺麗ですね』って言ってよ」
 冗談めかして言うと、若宮は不思議そうな顔をする。
「そう言ったじゃねえか」
「そうだけど、ちがうの!」
 少し前にネットで流行った言葉の綾は、やっぱり彼には通じなかった。
 まあ、しょうがないか。
 美雨は顔を上げて、半分欠けた月を眺め、それから若宮の横顔をそっと見た。
 いつか彼の口から零れる『お美雲』が『美雨』になればいいと思いながら。

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